こともなし

晴。昨晩遅かったので、寝坊。

午前中、かかりつけ医。スーパー。
昼食に焼きそばを作る。


だらだらとツイッターを見ていた。東さん、一時期アカウントを消していたのか。坂口恭平さん、鬱が寛解したのはめでたいけれど、言っていることがちょっと極端なのはあいかわらずだな。まあ、それくらいでないと「重要人物」ではいられないのかも知れない。湯浅誠さん、このところずっと見かけないなと思っていたら、もう政府批判も含め、他の批判はしないと。人々の「分断」があまりにも甚だしいからということらしい。さっそくクズが噛み付いていたが、これは確かにむずかしいところ。湯浅さんの態度の良し悪しはわからないが、人々の現在のひどい「分断」はわたしにも納得できるものである。さても東さんは、例の「愛知トリエンナーレ」でリベラルに人格批判までめちゃくちゃにされて、もうリベラルの人たちが嫌になったと言っていたが、これはわかる。いまの自称リベラルはほとんどが硬直化した教条主義だからな。「正義」がそうさせるのである。「正義」はほぼ必然的に分断をもたらす。論理はその機能として「分断」せざるはないからである。「論理」というか、概念はその本質としてすべて他からの分断である。突然だが、大塚英志はちょっと硬直化してきた感じ。あの大塚も正義派じみてきたかしら。(理不尽に)イヤミなのはまだ大塚らしいけれど。

黙っているのが必ずしもよいとは思わないけれど、いまのネットでしゃべるのは非常にむずかしい。ってここでしゃべっているから矛盾だけれど。お互いを褒め合い、あるいは貶しあっているのが無限に反射しあっているだけなので、すべての言葉が無意味になっていく。それに無感覚なナイーブな人たちはある意味幸せなのだけれど、そういう人たちの言葉もほとんどがただ埋もれていくだけのようにも見える。ま、埋もれていくだけでもよいと割り切っていられる人が、かなりの強さをもっているということなのだろう。というか、それしかないな。そこでわたしは小林秀雄の教えを思い出したりするのだが、まあ他人には意味不明ですよね笑。いまや小林秀雄も埋もれた。それは時代からして当り前な気がする。

正義ってむずかしいのだけれど、いったん物差しができてしまえば判断は苦もないことなのですよね。これは正しい、これはダメって簡単に、バカでも判断できる。その裏にナマの感情がくっつく。論理を表、感情を裏とかやったら、まずはダメなんで、ツイッターはその巨大な集積である。また注意しておくけれど、ここでの「ツイッター」は SNS の一機能を指す一般名詞です。


夕食に、老母に見てもらいながら鰺のフライを揚げる。

関川夏央を読む。