中沢さんとコロナ

日曜日。雨。

スーパー。
ごろごろ。


カルコス。「すばる」誌で中沢さんがコロナについてエッセイを書いているのを立ち読みしてきた。中沢さんらしい、意表を突かれる語り口のエッセイで、おもしろかった。中身は大きくは二つに分けられ、ひとつはコロナ禍による世界的な資本の回転の停止について、もうひとつは適切な距離というものについてで、それ自体は別に驚くことはないけれども、前者では資本の増殖様式とウィルスの増殖様式のちがいを指摘し、後者ではネイティブ・アメリカンの部族同士の距離のとり方が話題になっていて、それがいかにも中沢さんらしいというのである。前者でグレタ・トゥーンベリさんの怒りに触れてあったのもおもしろかった。確かに、この資本の回転の停止は、グレタさんの怒りを何者かが聞き届けたかのような印象を与えないでもない。中沢さんは、グレタさんが怒る「おとぎ話」、つまり幻想としての資本自身の増殖について、簡潔に分析してみせている。このコロナ禍が長期化を余儀なくされれば、その幻想が否応なく変質させられることもあり得るかも知れない。
 「適切な距離」については、特に日本人のそれというものは中沢さんは話題にしていなかった。日本のパンデミック対策が非合理的なものであったにもかかわらず、何故かパンデミックが日本で拡大しなかったことについて、海外のマスコミなどでは日本人の対人距離感覚(感覚としての対人距離)の遠さがその原因に挙げられることがあるが、まあそれは推測にすぎない。実際に、日本人の対人距離感覚が、他国人に比べて遠いということがあり得るのだろうか。わたしは外国のことはまったくわからないので、何ともいえない。わたし個人は、あまり他人と接触したくないタイプであるが、それが一般化できるのかもわからない。
 立ち読みして満足したが、ふと雑誌棚を見たら、コロナなんだから立ち読みするなとあってすいませんだった。

わたしは田舎で引き籠もっている人間なので、このパンデミックで影響を受けたとか、認識を改めたとか、そういうことは特にないように思う。わたしがコロナと接していたのは、もっぱらテレビとインターネットを通してだったにすぎない。そこでの大混乱には確かに強い印象を受けたが、特にいまでも強く印象に残っているのは、人間的にはわたしはキライだが、少なくとも合理的だと見做していたある種の日本の「知識人」たちが、パンデミック対策に関してはまったく非合理的な認識で一致していたことだった。現実には日本のパンデミック対策は、非合理的なものであるにもかかわらず悪い結果をもたらさなかったので、彼らの非合理性はこれからも温存されることがわかった。これは、個人的には結構意外な出来事だった。わたしは、わたしのキライな「合理的知識人たち」は、少なくとも合理性に関してはもっと信頼できると思っていたのだが。このあたりのところは、それこそ合理的な知日派外国人知識人(そんな人がいるのか知らないが)に訊いてみたい気もする。