萱野稔人『リベラリズムの終わり』 / 加藤典洋&高橋源一郎『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』

雨。

昼過ぎ、県図書館。強い雨。入り口ではサーモグラフィー検査もあって物々しく、そのせいなのか利用者はほとんどおらずガランとしていた。時々、あんまり長居をするなというアナウンスが流れる。萱野稔人の新刊、吉本隆明加藤典洋あたりを借りる。


図書館から借りてきた、萱野稔人リベラリズムの終わり』読了。最近評判の悪い、リベラルのお話。あるいは「リベラル」と「リベラリズム」はきちんと区別せねばならないのかも知れないが、いずれにせよ大したちがいはない(?)。わたしは家伝のリベラルであるが、本書はたいへんにおもしろかった。わたしもこのところリベラルは苦しいなと思っていたが、本書には納得感がありましたね。もっとも書名にもかかわらず、著者はリベラルあるいはリベラリズムがダメというのではなくて、その最良の部分である「フェアネス」は活用せなければならないという立場だそうであるが、まあね、どっちでも(略)。
 リベラリズムは本来は政治思想で、それが他人の自由を侵害しない以上は、個人の自由が重視されるべきであるというそれとここではテキトーに説明しておくが、どうしてこれが現在苦しいのか。著者の見方だと、それは社会の「右傾化」によるものであるが、じゃあどうして社会は「右傾化」しているのか。それは、人間がバカになったからではなくて、富の再分配に関係があると著者はいう。つまり、リベラルは「富は再分配されなくてはないらない」と主張するが、いまは再分配されるべき「パイ」が世界的に縮小してしまったため、それが無理になってしまった。だから、国民は必然的に右傾化して、リベラルはダメなんですねという論法である。特に日本は少子高齢化が急激で、パイは小さくなる一方だというのだ。まあ、この論法自体は粗雑というか、強引さもあると思う。まあここで説明のため議論を簡略化しているし、そもそもわたしのリテラシーがない可能性もあるが、わたしはそんな風に読んだ。例えば、パイが小さくなるのは必然かという反論が直ちに挙げられるだろう。また、国民の右傾化はパイの縮小だけのせいなのか、それははっきりしているのかという疑問もある。インターネットに関係があるのではないか、とか。
 さても、わたしがおもしろいと思ったのは、政治思想である「リベラリズム」が、いまはパイの大きさという、経済学的議論を無視できなくなったという事実である。その点で、現代リベラリズムの本丸であるロールズの自由論の議論になるのだが、著者の議論だと、ロールズは理論に必然的に経済学的観点を導入せざるを得なくなっているというのだ。ここらあたりは、大変に勉強になりました。ロールズは猖獗する「功利主義」に対抗して「自由論」を書いたのだが、わたしの素人的印象では、現在において「功利主義」を捨てることは不可能であり、ロールズも経済学的議論を導入した以上、「功利主義」を反駁しきれていないような感じである。わたしはそのあたりのチャンバラにはあまり興味がなくて、かしこい学者たちが切り合っておればよいと思っているが、いずれにせよそのあたりの議論が我々の生活に直結してくることが免れないのだ。これが、現在が厄介な時代ということである。いまや、リベラリズムの退潮どころか、「監視社会」の到来すら不可避であるといわれており、いや、我々はどこへ連れていかれるんでしょうね状態であることは誰の目にも明らかになり始めている。
 なお、ロールズというと「無知のヴェール」があまりにも有名であるが、これは多数の批判に晒されて、ロールズは晩年ほとんどそれを主張しなくなったというのは、へーという感じがした。何にせよ、いまは「経済学の時代」であることを、何かと痛感させられるのであり、本書がおもしろいのもまさにそこだという読後感である。

あと著者の議論でちょっとおもしろかったのが、リベラルは「富の再分配」を主張する以上、国家が国民から税金を徴収することが当然不可避であるにもかかわらず、リベラルは税金の徴収がキライという欺瞞をもっているというもの。まさに日本共産党とかそれで、ある口の悪い学者が彼らの「憎税」といってバカにしていたのを思い出した。ただ、税金の徴収のあり方はいろいろあるのも確かで、どういう税制がよいのかというのは、またしても経済学である。わたしにはそのへんは面倒で、ツイッターとかで素人玄人入り乱れてお互いにバカ、クズ呼ばわりしているのを見るのは、正直うんざりしている。


図書館から借りてきた、加藤典洋高橋源一郎吉本隆明がぼくたちに遺したもの』再読了。

吉本隆明がぼくたちに遺したもの

吉本隆明がぼくたちに遺したもの