こともなし

晴。

郵便局。洗濯屋。スーパー。

長時間昼寝。
暑い。わたしの苦手な夏がやってきた。そもそも夏は光が強すぎる。わたしは別にサングラスをするわけではないが、澁澤龍彦の気持ちはわかる。日没前にならないと、散歩もできない。本を読むときも部屋を暗くしがちで、穴居生活である。わざわざそんなだったら、早寝して深夜に起きればよいのだが、いま眠れすぎて困る、いや、全然困らないのだが、とにかく早く寝ても遅く起きる。不健康? まあ、そうかも知れない。

何もせずにごろごろしていることも多いので、一日がすごく速く過ぎる。まさに光陰矢の如しを実感する日々。ああ、もう明日は甥っ子の勉強の日だ。


NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第四番 op.7 で、ピアノはメロディ・チャオ(NMLCD)。■ブラームスのピアノ・ソナタ第三番 op.5 で、ピアノはヴュタウタス・スメトーナ(NML)。

Vytautas Smetona Plays

Vytautas Smetona Plays

 
曇。
日没前、散歩。



モンシロチョウは草葉の陰で眠る。
今日はシオカラトンボを見た。


東浩紀氏の対談集を読み始めた。まずは、中沢新一加藤典洋國分功一郎高橋源一郎諸氏との諸対談を一気に読む。あー疲れた。中沢さんとの対談ではほぼ中沢さんの独演で、東氏はほとんど発言していないので措く。あとのはどれもとてもおもしろく、刺激的でもあったのだが、またどれも「わたし自身の現実に届いていないな」と思わざるを得なかった。言葉が(あくまでもわたしの)現実の1mくらい上空で、ただ舞い踊っているだけという感じ。これでは、納得も反発もできない。しかしまあ、わたしの現実つったって、田舎の独身の後期おっさんのダレた日々というだけであるが。例えばここにある言葉たちは、あと五年くらいは賞味期限はあるのか知ら。いや、これらは何年か前の対談たちだが、現在においてすら賞味期限切れのような感じがわたしにはある。例えば、東氏の繰り返す「動物」。この「動物」は、抽象的すぎる感じが、わたしにはする。また、「家族」。これが重要な「概念」であることは疑いないが、既にわたしたちは徹底的に「個」の方へ追いやられようとしていて、希望の灯は見えない。ま、しかしこれは、ただわたしの感覚がおかしいだけなのだろう。東氏の才能がすばらしいものであるのは明らかだ。

新対話篇 (ゲンロン叢書)

新対話篇 (ゲンロン叢書)

  • 作者:東 浩紀
  • 発売日: 2020/05/01
  • メディア: 単行本
勝手にわたしが感じるだけだが、わたしは「こちらの方向」は完全に行き詰まっていて、突破口はないと思う。もちろんこれは、東氏が悪いのではない。氏の才能にもかかわらず、「こちら」に希望はないのだ。では、どこかに希望はあるのか。これはむずかしいところだと思う。少なくともわたしには、先に何の希望もない。ただ、掘削を続けているだけ。

「動物」に関しては、わたしは東氏の考えとはたぶん正反対だと思う。我々は「動物化」しているのではなくて、動物からどんどん離れているのだと思う。東氏の指摘する「動物化」は、むしろ我々の最後のあがきであり、断末摩のようなものなのだ。オタク的領域は、我々の最後の生命の泉のようなものなのである。それが世界で熱狂的に受け入れられているのは、だからある意味で当然のことなのだ。ネットはいまやカオス化・地獄化しているが、それは「動物化」ではなくて、あまりにも、あまりにも「人間的な」振る舞いが地獄を招いているのだ。まさに自業自得という他ない。

突然であるが、わたしは、AIは徹底的に「人間的」だと思う、それはつまり「人間」そのものの拡張であるという意味で。動物はAIと関係がない。