村上春樹『女のいない男たち』 / ジョン・ロールズ『公正としての正義 再説』

日曜日。
深夜起床。

ごろごろしたり、中沢さんの『レンマ学』を読んで、またごろごろしたりする。限界の先へいって、汚いものが湧き上がってくる。いくら大変でも、みずから限界を設けてはいけないなと思ったり。外はまだ暗いが、ウチは地方の幹線道に近いので、夜明け前でも静かではない。

曇。
老両親は朝が早い。わたしも朝食をとって、しばらく寝る。外では子育て中のカラスがうるさい。

雨。スーパー。

四年間使ったショルダーバッグのジッパーの金具が取れてしまったので、新しいものを注文する。

昼寝。寝すぎ。


村上春樹の『女のいない男たち』という短篇集を読み始める。冒頭の二篇、「ドライブ・マイ・カー」と「イエスタデイ」を読んだ。やはり、村上春樹は深い作家だ(陳腐な言ですまん)。「女のいない男たち」というのは、つまり「女に振られた男たち」ということらしい。ちょっと衝撃みたいなものを受けたくらいである。で、二つ読んでとりあえず中断した。誰だって女に振られたことくらいあるだろうし、わたしもあるが、それをこんな(見事な)ふうに書くというのは、どういうものだろう。わたしだって文才があれば(笑)、自分の体験で一篇(?)だけは心をうつ短篇くらいは書けるかも知れないが、…しかしそんなことは御免である。小説家はまったくの作り物としてこんな(罪作りな)ものを書かねばならないとは、因果な商売だ。わたしが坊主だったら、主人公たちの体験そのもの(フィクションであるが)を供養してやりたいと思うのではないか。こんなものを読むと、人生は何も体験しない方がよいような気もしてくるが、まあしかし、小説は小説にすぎない。けれども、我々は小説やドラマ、映画、マンガ、アニメ、そういうものの影響というか、コードを共有して、人生を生きるのである。つまり、人生は小説で作られるし、それこそが煩悩であり無明なのだ。チーン。南無阿弥陀仏

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

しかし、女というのはそんなに気軽に(軽率に)男と寝るものだろうかね。さてね、人生を知らないわたしは知らない。

それにしても、わたしは小説作法の「人生を振り返って…」、過去へのパースペクティヴというのが苦手だ。我々にはじつは過去も未来もない。現在しかないというのが本当のところだ。(過去も未来も、現在にしかない。)だから、そのような小説はいわばウソであり、ドラマタイズにすぎない。


村上春樹の続き。「独立器官」を読む。読んでいてどんどん心が冷えていったのを感じた。人生というものを知らないわたしがいうのも何だが、著者は人生の何を知っているのか。ここにあるのは、ウソばかりだ、小説家の卑しい心が覗いている、まあそんな風に感じて仕方がなかった。もちろんすぐれた小説家は、現実に体験していようがいまいが、偉大な想像力で真実を見抜く。それはわたしも承知していて、たぶんわたしの感じ方がおかしいのだろうとは思う。けれどもとにかく、本書を半分読み終えたが、残りはとても読む気が起きない。わたしには、本書はこれでおしまい。


ジョン・ロールズ『公正としての正義 再説』読了。