深夜起床。昨晩は明かりをつけたまま寝入ってしまった。
暗い中、何もすることなくごろごろする。このところ気分が暗い。気分というやつは、つまらないことで左右されるものだ。些細なことで落ち込んでいるというか、意気が上がらない。
曇。
NML で音楽を聴く。■ハイドンの協奏交響曲 変ロ長調 Hob.I:105 で、指揮はフランス・ブリュッヘン、18世紀オーケストラ(NML、CD)。■スカルラッティのソナタ K.113, K.114, K.115, K.116, K.117, K.118, K.119, K.120 で、チェンバロはスコット・ロス(NML)。■ショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第一番 op.8 で、演奏はチューリッヒ・ピアノ三重奏団(NML)。
Shostakovich: Piano Trio Works
- アーティスト:Zurich Piano Trio
- 発売日: 2006/05/24
- メディア: CD
Schumann:Piano Quartet/Quintet
- アーティスト:Swiss Chamber Soloists
- 発売日: 2000/11/23
- メディア: CD
スーパー。
気がふさぐといろいろくだらんことをするのであるが、何か遊んでいるうちに半日過ぎた。
雨。
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ちくま学芸文庫近代日本思想選『西田幾多郎』読了。西田が本当にえらい哲学者だったことに得心がいって嬉しかった。西田は本だけ読めて世界という書物を直接読み解くことのできないたんなる哲学研究者ではなかった。わたしのような未熟者には西田はむつかしいのであるが(当り前)、わたしが若い頃勉強していた物理学も西田の射程に見事に入っていることに気づいて、これも嬉しかった。東洋思想も(いや、東洋思想こそ)、科学を基礎づけることが可能であり、それは最近の中沢さんの『レンマ学』でより精緻に進められていることである。西田はもっと図書館で読んでみるつもり。
それにしても、編者解説に禅は西田「哲学」のベースではない(p.550)という文章があるが、嗤うべきである。たとえ仮に西田哲学にあからさまに禅の見かけがまったくなかったとしても、西田が何を見ているかがわかれば自ずとわかるところがあるだろう。ましてや、西田哲学には直接禅からもってきた用語・発想がたくさんある。西田哲学は東洋思想の「哲学化」であるというのはあまりにも紋切り型かも知れないが、この観点を放棄すれば西田哲学の本当の価値を理解することはできないだろう。いや、ま、わたしのごとき未熟者のいうべきことではないが。