昧爽起床。
起きてまだ暗い中、一時間ほどぼーっとする。
NML で音楽を聴く。■バッハのヴァイオリン・ソナタ ホ短調 BWV1023 で、ヴァイオリンはラインハルト・ゲーベル、チェロはヤープ・テル・リンデン、チェンバロはロバート・ヒル(NML、CD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十二番 op.54 で、ピアノはファジル・サイ(NML、CD)。■スカルラッティのソナタ K.110, K.111, K.112 で、チェンバロはスコット・ロス(NML)。
雨。
■ベートーヴェンの交響曲第一番 op.21 で、指揮は久石譲、ナガノ・チェンバー・オーケストラ(NML)。じつにフレッシュなベートーヴェン。田舎から出てきたベートーヴェンの意気込みが見えるような演奏だ。よかったです。ライブ録音なので、拍手が欲しかったくらい(と感じるのはわたしにはあまりないことである)。
- アーティスト:久石譲(指揮)ナガノ・チェンバー・オーケストラ
- 発売日: 2017/07/19
- メディア: CD
洗濯、風呂掃除。
甥っ子の勉強を見る。
妹来る。珈琲工房ひぐち北一色店にて昼食。
妹たち帰る。
■フォーレのノクターン第三番 op.33-3、第四番 op.36 で、ピアノはフランソワ・デュモン(NML、CD)。■ヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」で、指揮はマリス・ヤンソンス、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(NML、CD)。ヤンソンスは本当にわたしに合うなあ。コンセルトヘボウ管もいい音を出すし。長いことヤンソンスのすごさを知らなかったとは、わたしの無知の甚だしいのにも程がある。で、認識したと思ったら亡くなってしまったしな。
スーパーで買ってきたロールケーキでお茶にする。
■ブラームスのチェロ・ソナタ第一番 op.38 で、チェロはトゥルルス・モルク、ピアノはエレーヌ・グリモー(NML、CD)。■ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、「ボレロ」で、指揮は佐渡裕、トーンキュンストラー管弦楽団(NML、MP3 DL)。佐渡さん、じつにおもしろい。わたしには非常に個性的に聴こえる。「ボレロ」とか、あまり聴きたい曲ではないのだけれど、へえ、こんな風に演奏できるんだという驚きがある。いまやクラシックの演奏家でも真に個性がある人が少なくなったが、佐渡さんがいるじゃないかという感じがするな。
老母と夕飯を作る。キャベツの豚肉巻きと、菜の花とササミとサラスパのサラダ、あと一品。ふつうの献立が食べられるのがうれしい。
皆んなでブラタモリを見る。天草・島原の潜伏キリシタンの話。キリシタンの信仰が英雄的に捉えられているところがあったが、なかなかむずかしいところだと思う。宗教が原因で大規模に殺し合いをするというのは、そんなによいことなのだろうか。そういう宗教像があるからこそ、現在において宗教が「コワい」とか、「アブナイ」ということになるのではないか。いまにあっても、「宗教は民衆のアヘンである」という把握は、知識人において(いろいろ形は変わっても)一般であり、あいかわらずの「啓蒙主義」でやっていけるとするのが合理的であると考えられている。
というか、精神そのものが「アブナイ」ものであり、我々は精神の曖昧な部分を可能な限り縮小させて、できるだけ「合理的に」ふるまうべきとされるのが、いまや一般に浸透した。若い人たちを見ていると、まったくそれだと観察される。それを仮に「素朴合理主義」とここで呼ぶとして、それでやっていけるのか。わたしは、素朴合理主義でやっていけるとするのは、あまりにナイーブだと思う。非合理的なものを地下に埋葬しても、それはなくなってしまうわけではない。それは、思いもよらない形で噴出する、かかる現象がいま見られていると思う。いわゆるフェイクニュースやポスト・トゥルースが、徹底的に合理的であることをよしとされるアメリカで猖獗を極めていることを思い出そう。あまり大きな話にしたくないところだが、とにかく、我々は「矛盾」というものを避けることは決してできないのだ。むしろ、それこそが「生命」なのであり、宗教が消えてなくならないし、なくなるべきでない理由もそこにあると思われる。もちろんわたしのこういう考え方は特にめずらしいものではなく、秀才によって簡単に理性的に整理されてしまう(例えばファシズムに繋がるとされたり)ようなありふれたものであるが、それでもわたしは上のように考えざるを得ないのである。陳腐なことを書いてしまった。
(どうでもいいのだけれど、若い人たちの中には「結婚って合理的でないよね」という人たちがいまや相当多くなっている。わたしは結婚したことがないのでわからないのだが、結婚ってたぶん、勢いとかあやまちみたいな感じでするものだよね。それか、しないといけないからする、とか。結婚が合理的でないというのは、当り前のことで、若い人たちがなかなか結婚しないのもわかるような気がする。でも、わたしは結婚したかったな。妻も子供もいないというのは、やはりさみしい。)
わたしのこのような考え方は、もしかしたら大もとのところは、小林秀雄経由で、ベルクソンから来ているのかも知れないなと思う。もちろん、誤読に継ぐ誤読をとおしてだろうが。