石牟礼道子『道子の草文』 / 坪内祐三『古くさいぞ私は』

深夜起床。

図書館から借りてきた、石牟礼道子『道子の草文』読了。遺文集。「田舎は文化果つるところと思われて来ましたが、その田舎から見ているといまの文化は、知っていること、体験したこと、学んだことを限りなく消費していくだけのようです」(p.271)。石牟礼さんはこういう言葉を深いところから発しておられるが、ネットでは簡単に消費されてしまうことであろう。といっても、ここでわたしがこう書くこと自体、そんなものかも知れない。しかし、わたしのごときでも、田舎から見ていて思うことはある。石牟礼さんの言葉は、わたしの心に響く。さても、世界の人工化はどこまで進むものかと思うが、そういう主語の大きな話はまたにしよう。これもまた、屁理屈の礫が飛んでくるような話題だから。

道子の草文

道子の草文

 
NML で音楽を聴く。■バッハのヴァイオリン・ソナタ第六番 BWV1019 で、ヴァイオリンはラインハルト・ゲーベル、チェンバロはロバート・ヒルNMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十三番 op.27-1 で、ピアノはファジル・サイNMLCD)。■ウェーベルンの「夏の風の中で」で、指揮はマリス・ヤンソンスロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団NMLCD)。■ブラームス交響曲第一番 op.68 で、指揮はマリス・ヤンソンスロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団NMLCD)。さすがにヤンソンスだな。申し分がない。

曇。
メシアンの「八つの前奏曲」で、ピアノはキアラ・シペリ(NMLCD)。メシアンは本当にすばらしい。自分はメシアンこそ、二十世紀最大の作曲家ではないかと思ってしまうくらいだ。

ウチの紅梅が一斉に咲き出した。
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老父との暮らしではほとんど会話がないので、家の中がクラい。あるのは天気の話題くらいか。食事時でも、たいてい二人ともだまーって、黙々と食べている。老父はわたしには、老父のペースではしゃべれないので、黙っているしかないのだ。まあわたしはこれしかしようがないとわかっているので、特にどうもしない。老父は人付き合いのよい人で、生徒にも大変に慕われる人であり、わたしは狷介な人間で、生徒に慕われたことがないくらいなので、どちらに問題があるかは明白かも知れない。さても、老父は厄介な息子をもって、気の毒であるというべきであろうか。
 
昼食はおでんの残り。妹が作ってくれたものは全部きれいに食べ切りました。

面会。順に管が取れていっている。体重を戻すため、病院のマズい食事も頑張って食べているそうだ。少しづつ元気が戻ってきている感じ。こちらも多少楽観している。

肉屋。スーパー。

ああ、市の図書館も県の図書館も、コロナウイルス関係で二週間休みになったのか。仕方がないな。返却はブックポストに可能というけれど、それでは借りられないやんけ。

今日は気温が高くて風が強いせいか、はっきりと花粉症の症状が出た。目が痒い。

夕飯は常夜鍋で、デザートはりんご。うまかった。

今日の面会のときに、津野海太郎さんの「最後の読書」(というWeb連載)がおもしろいよと老母にいわれたので、最終更新を読んでみたら、おもしろかった。読書で「勉強」するというのを、植草甚一ブレイディみかこさんを例にして語っているのだが、人選がいいよね。わたしも「読書でお勉強」派だが、とても植草やブレイディみかこさんのような柔軟性はない。でも、気持ちは似ているかなと思った。わたしのは「悪しき教養主義」だから、ちがうかな。といっても、教養はないのだけれどね。
なお、「最後の読書」は新潮社のウェブサイト「考える人」で連載されています。


図書館から借りてきた、坪内祐三『古くさいぞ私は』読了。先日も書いたが、とてもおもしろかった。坪内氏の初期の本で、文章が瑞々しい。エラそうでなく謙虚で、読解は繊細、博覧強記、これでおもしろくない筈がない。後年になると坪内氏は自分が重要人物であることに慣れてしまうのであるが、わたしはそこが苦手だった。これからも坪内氏の本はそれほど読むつもりはないが(何様!)、初期の本はいくつか読んでみようと思っている。

古くさいぞ私は

古くさいぞ私は