こともなし

曇。
早寝早起き。

NML で音楽を聴く。■バッハのヴァイオリン・ソナタ第四番 BWV1017 で、ヴァイオリンはラインハルト・ゲーベル、チェンバロはロバート・ヒルNMLCD)。この曲、バッハの何か別の曲と同じような気がするが、よく思い出せない。冒頭のシチリアーノが心に沁みる。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十二番 op.26 で、ピアノはファジル・サイNMLCD)。■スカルラッティソナタ K.103, K.104, K.105, K.106 で、チェンバロスコット・ロスNML)。小林秀雄スカルラッティをよく聴いていたのであるが、最近そのことを時々思う。

甥っ子の勉強を見る。

妹一家皆んなで来てくれた。珈琲工房ひぐち北一色店にて昼食。今日はえらく混んでいた。というか、これくらい人が来て当然の店なのだけれど。義弟といろいろ話がはずんだ。

面会。明日からお粥が始まるそうである。でも、まだ管がいっぱい付いているので、寝ているしかなくて、これではぼーっとしてしまうね。食べられるようになるのはよいこと。

このところ、自分の事情で、読んで索然とする文章とそうでない文章が分かれ気味であるが、ブログでは岡崎武志さんのそれが以前から好きだ。申し訳ないが、書籍よりもブログの方が好きかも知れない。だからブログを止められたときは寂しい思いをしたが、また始められて楽しみに読んでいる。わたしはオカタケさんは「大人だなあ」と思うのだが、これでは全然他人には通じませんね。わたしは生きるというのは基本的につらいことばかりで、しかし楽しみもなくはなくて、そんなことは当たり前のことだと思っているのだが、それが当たり前だとわかっている人がわたしのいう「大人」なのである。時々は多少愚痴もいうが、あまりうるさく言わない。それも当たり前である。もちろんわたしがオカタケさんをそうだと思っているのは、勝手な思い込みであるが、まあ何にせよほとんどすべては思い込みのようなものだ。時々幸せそのものしかないように見える人生を送っている人もいるが、それはまったくすばらしいことである(それは他人をも幸せにする)。が、わたしはそうでないように思われる。別に、わたしは生きるのは嫌いではありませんよ。
わたしはオカタケさんに投げ銭をしたいのだが、それは本を買うのがいちばんな気がしている。そうしよう。

ブログ「daily-sumus2」の、「坪内祐三と岡崎武志の出会い」というエントリも、最近興味深く読んだ文章だった。オカタケさんの春陽堂HPでの連載も、合わせて読まれるとよいかも知れない。ま、その筋の方々(?)には申すまでもないことだが、そういう方々はわたしのブログとは関係がないので。

どうでもいいのだけれど、わたしは吉本さんも好きなんだ、似たような意味で。吉本さんは大思想家なのだが(本当ですよ)、「インテリ」ではなくて、(もののわかった、まともな、さみしい)ふつうの庶民なのである。これは、吉本さんが自分で素直にいっていることである。それがよくわからずに、それに噛み付いている馬鹿な「文芸評論家」とやらもいたな。谷川俊太郎は吉本さんを「畏敬している」といっていたし、小林信彦は確か同じ東京のネイティブとして、親近感があるとかいっていたように覚えている。わたしはそれらがわかるような気が、勝手にしているのである。もののわからない田舎者ですけれども。

弱い雨になる。
下の甥っ子の勉強を老父が見たあと、夕方四時くらいに妹一家帰る。いつもありがとう。

図書館。今日は返してくるだけで、何も借りなかった。

石牟礼さんの『道子の草文』を読み始める。若書きも収録されている。第一、第二部はざっと目を通して、第三部からふつうに読む。

夕食は妹の作ってくれたポトフ。ありがたく頂いた。今夜は寒いので助かった。デザートはりんご。

老父とブラタモリを見る。伊賀忍者