村田喜代子『飛族』

晴。
よく寝た。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第九番 K.311 で、ピアノは稲岡千架(NMLMP3 DL)。悪くない。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻 ~ BWV864-867 で、ピアノはアレクサンドラ・パパステファノウ(NMLCD)。■ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第一番 op.5-1 で、チェロはミッシャ・マイスキー、ピアノはマルタ・アルゲリッチNMLCD)。マイスキーアルゲリッチもさすがという他ない。すごいものだな。

午前中、スーパー。

斎藤美奈子さんのウェブの文章を読んでいたら、斎藤さんが以下の文章を(わりと肯定的に)引用していた。引用の一部を孫引きする。

日本国憲法に、これから先、二度と戦争をしないという、国と日本国民の強い決意として、第9条が定められたのです

http://www.webchikuma.jp/articles/-/1918

これは(よくありそうな)大変な誤解で、日本国憲法の第九条は、「日本国民の強い決意として」定められたわけではないし、その前の語の「国」は、アメリカである。日本国憲法は基本的にかなりよいものだが、作ったのは GHQ である。まあ、だからどうだというわけではないのだが。
 わたしの改憲に対するスタンスは、伊勢崎賢治さんのそれにほぼ賛成である。わたしはサヨクである筈だが、基本的に改憲論者であるといってよい。しかし、「安倍改憲」は最悪だと思っている。問題の隠蔽に他ならないからだ。わたしが問題だと思うのは、日本がアメリカとの関係において、主権をもっていないということである(これは判例などから証明可能だ)。その問題系の一部として(というほかない)、自衛隊は軍法をもたない(「自衛隊は軍隊でない」ということになっているので)という大欠陥があるゆえ、国際法違反の状態にあるのが事実である。一国の独立した軍隊となっていないのである。このままだと、例えば自衛隊員が任務中、外国で現地の民間人を誤って射殺したような場合、国際法に則った対処ができないことになっている。また、現状だと日本はアメリカの戦争に、自動的に参加しなければ場合が出てくる。これも大問題である。仮に日米同盟が必要なものであるとしても、その関係は対等でなければならない。いまのままでは、アメリカには(当然)主権があるが、日本はアメリカに対して主権をもたないがゆえに、対等でないのである。

サヨクとして考えると、憲法第九条によって日本の左翼が事実を隠蔽する構造を作り出してきたのがいちばんの問題のような気がする。「憲法第九条を守る=平和」という構造である。その意味で、保守乃至は右翼と事実上の共同戦線を張ってきたとすら、いえないことはないと思うのだ。主権がない国家というのは異常であり、国民の思考力を奪う。そして左翼はまた、第九条が国際的な人権の問題にも関わっていることを隠蔽してきたのである。

かつて柄谷行人が「憲法第九条は我々の無意識である、ゆえに改憲は決して成功しない」というようなことを書いているのを読んでわたしは笑ったが、ある意味で柄谷行人は正しい。我々の隠蔽体質は、無意識のレヴェルに及んでいるといってよい気がする。

昼食は妹が作っておいてくれた味噌汁に、餅を放り込んだもの。

面会。老父が書類の手続き。昨晩は初めて朝まで眠れたそうで、これはよかった。まだ熱があるのはしんどいようだが、少しづつよくなっているようである。顔に血の気が戻ってきた感じ。歩くのも、頑張って歩いているそうだ。退院はまだまだ先のようだが、ぼちぼちよくなっていけばいい。
帰りにスーパー。肉屋。

夕方、ごろごろぼーっとする。

夕食は常夜鍋。まあおいしかったのではないかな。二人でよく食べた。デザートはプリン。毎日鍋料理なのは、老母の入れ知恵(?)である。日々寒いからね。

老父が風呂をやろうとしたら、わたしの役割の風呂掃除が今日はまだだった(笑)。ぼーっとしてんなあ。すぐに浴槽を洗って、で入ってもらう。

図書館から借りてきた、村田喜代子『飛族』読了。老母から入院前に廻してもらった本。なかなかおもしろかった。著者はたまたま老母と同年の生まれなので、そう言ったら叱られるかも知れないが、おばあさんの小説家ということか。しかし主人公の老婆たちはそれよりもずっと高齢だ。二人の老婆は、崖の上で「鳥踊り」を踊っている。あたかも鳥のように、崖っぷちから飛び出しそうだ。老婆ふたりも、語り手の女性も、いつかはこの東シナ海の小島からいなくなるだろう。そして、すべては原初の世界に帰っていくのか。それとも、密入国者たちの住処になるのか。わたしは、人間がすべていなくなった世界は、原初の世界に戻っていくのがよいと思っている。人間は、他の動植物を巻き添えにして滅びていくべきではない。とよくわからない光景が見えてきているが、わたしの中にある、プリミティブへの志向がそうさせるのであろう。もっとも、もはや自分は文明の毒の中で生きていくしかないことがわかっている。アナーキスト的なたくましさは、わたしにはない。そうすると、まったく無意味な人間ということになろう、わたしは。本書の老婆たちは、まだ自分で生きてゆける。アワビの宝庫を知っているから、やろうと思えば海に潜って数百万円を稼ぐことだって可能だ。わたしにはそのようなたくましさはないし、かといって急速に拡大する人工世界で生きていくのもかなわないという気もある。そのような、宙ぶらりんの世代、ということになるか。

飛族

飛族

本書には老婆たちの象徴するいまではほとんど失われた世界と、現実の行政・政治的な世界の双方が書き込んであるが、そこが新しいといえば新しいような気もするし、中途半端だという感じもしないではない。いずれにせよ、石牟礼さんを思わせるところはあるが(それは昨日も指摘した)、石牟礼さんほどの深みには達していないように読んだ。もっとも、それは意図的にそうされたのかも知れないが。