町田康『記憶の盆をどり』

晴。

午前中、甥っ子の勉強を見る。数学は学校でよくわかるようになったようで、喜んでいた。テストで点が取れて、自信がつくとよいのだけれどな。

昼から夕方までごろごろ。

図書館から借りてきた、町田康『記憶の盆をどり』読了。すごくおもしろかった。文体の妙というか、「文体の盆をどり」というか、言葉のアクロバットがすごい。最後の短篇など、ほとんど意味というか辻褄というものがなく、これをおもしろく読ませるのだからすごい筆力だ。先日も書いたし既に源一郎さんが指摘しているが、文章に古くさい単語を唐突に挿入してくる芸は誰にも真似ができない。ただ、文章が可笑しさに満ちているにもかかわらず、ほぼどの短篇も読後感が苦いのは、何か作者の気持ちが透けて見えるようにも思える。あんまり時代とかいいたくないけれど、やはり現代というものがそこに反映している気がする。「コミュニケーションの不可能」とかいうと、著者に笑われるだろうけれどね。

記憶の盆をどり

記憶の盆をどり

町田康は途中で腰砕けになって読み切れていない長篇があるのだが、それも続きを読んでみようかな。

シロクマ先生がブログで書いていたことを勝手に言い直すと、現在では「コミュニケーションのためのコミュニケーション」というものがなくなろうとしていると言えるかも知れない。つまり、コミュニケーションは何かのためのコミュニケーション、さらにいえば「用事を済ますためのコミュニケーション」しかなくなってきているようだともいえそうである。つまり、相手のプライバシーには踏み込まない。相手のプライバシー(あるいは「内面」)に踏み込むことはなべて無作法であり、例えばそれを男性が女性に対して行ったら、既にセクハラと見做されかねないのである。だから当然、恋愛というものがすごくむずかしくなってきている(らしい)。さてはて。田舎の孤独なおっさんにはよくわからないといえばよくわからないが、いやよくわかる気もするし。

だから、少なからぬ人たちが SNS で反吐を撒き散らしているのかな。しかし、ネットで他人にマウントを取りたがるのは何なのだろう。人間ってそもそもそういうものなのか。

ご飯の後片付けをもっと楽にしてもいいんじゃないということで、食器洗い機を入れました。当り前かもしれないけれど、油よごれとかもきれいに洗えてよかった。