渡辺公三『増補 闘うレヴィ=ストロース』

日曜日。晴。
よく寝た。十時間くらい寝た。いまいちばん望むのは寝ることかも知れない。

昼寝。


珈琲工房ひぐち北一色店。おいしいコーヒー。渡辺公三『闘うレヴィ=ストロース』を読む。最近平凡社ライブラリー版で購入した本であるが、元本の平凡社新書版を既に読んでいるようだ。しかし中身はまったく覚えていないし、ブログにも大したことは書いていない。たぶん、何も読めていなかったのであろう。読み始めてみるとおもしろい本で、この人は読めているなと超エラソーなことを身の程知らずにも思った。そのくせわたしのレヴィ=ストロース理解は、どの程度のものかまったく疑わしいものである。まだ邦訳『神話論理』、読んでいないしな。いま読んだところはレヴィ=ストロースの若い頃の話で、とてもおもしろい。レヴィ=ストロースはゆっくりゆっくりと、けれども確実に成長していった人で、思想界(あるいは学界)へのデヴュー作である『親族の基本構造』は四十一歳のときと、比較的遅咲きのようにも見えるが、じつは若い頃から積極的に鋭い政治的文章を書いていたことを知った。巨人レヴィ=ストロースは本当に興味深い人だ。思えば二十世紀は思想的に豊穣な時代であったが、いまや思想の源泉は世界的に見てもほとんど枯れかかっているように見える。秀才たちしかいなくなり、考えることはパズルを解くことと変わりなくなったかのようだ。もっともそれは、わたしが現代を何も知らないから、そんなことを言っているだけかも知れない。あるいはもはや終った人の、「昔はよかった」なのかも。まあ、どうでもよいが、そんなことは。

著者の渡辺公三氏は2017年に既に死去している。レヴィ=ストロースは2009年に百歳で死去。

渡辺公三『増補 闘うレヴィ=ストロース』読了。付論と解説はつまらなかった。わたしはアカデミシャンでないのだから、こういうのは安んじて無視できる。本論はなかなかおもしろかったのだが。ま、皆さんアカデミズムが大事なのだから、好きにしたらよいのだ。わたしは依然として、アカデミズムには無意味な読書をしよう。というか、自分以外誰にも無意味だってよいではないか。

シェーンベルクの音楽論集を読んでいるのだが、何だか可笑しくて時々吹き出してしまう。これはたぶん、わたしのあまり好きでない「ユーモア」というやつではない。どちらかというといわゆる「天然」というやつのようで、例えばシェーンベルクは作曲する際の自分の速筆をこれでもかと自慢する文章を書いているのだが、何でそんなことを自慢するのか、いやまあわけはわかるのだが、それにマジメに書いているのだろうが、可笑しくて仕方がない。それは、ちょっと説明し難いのである。