秋月龍珉『無門関を読む』 / ミチコ・カクタニ『真実の終わり』

晴。

午前中はごろごろしていた。

図書館から借りてきた、秋月龍珉『無門関を読む』読了。秋月師はもっと読まないとな。まあ、本書を繰り返し読んでもよいのだが。

無門関を読む (講談社学術文庫)

無門関を読む (講談社学術文庫)

 

珈琲工房ひぐち北一色店。図書館から借りてきた、ミチコ・カクタニ『真実の終わり』読了。原題は「The Death of Truth(真実の死)」で、邦題よりもきつい表現なのだろうか。わたしはたぶん反トランプ主義者といってさほど遠いとも思わないが、本当のこと(truth)はあまり言わないカスなので、著者からトランピスト呼ばわりされても不思議ではない気がする。わたしは本書を読んで溜飲を下げたかったという、いわばバイアスをもって本書を読み始めたのが正直なところであり、まあ反トランプという点では目的は達成されたのかも知れないが、じつは読後感はよくない。といって著者は大変なインテリなのでわたしの理解を超えているのではあるが、はっきり言って著者はむずかしい言葉で、相当に下品なことを言っておられる。わたしの深読みにすぎるかも知れないが、トランプみたいなクソが大統領になったのは、つまりは民衆がクソだからだ、あのクソどもを何とかしろ、わたしはつまるところそんな風に受け取らざるを得なかった。著者の怒りは、結局大衆に向けられているのではないか、それも深読みか? 結局、著者の存在そのものが、現代世界における「エスタブリッシュと大衆の分断」を象徴しているようにも思われる。
 最終的に、わたしは本書に、わたしがいつもイヤな思いをしている、日本でのツイッターで正しいことばかりを言っている人たちの無自覚的な「下品さ」と同質なものを感じざるを得なかった。ところで、本書に頻出する「トロール」という単語、日本語に敢て訳されていないのであるが、これ、相当に汚い意味で使われているのではないか。たんなるインターネット・スラングの「荒らし」の意とは思えないのである。もともとの北欧神話の(醜い)妖精からの連想で、「低能」みたいなニュアンスを感じるが、まあわたしの英語力はお話にならないので、ちがうかも知れない。この語については訳者の言及があってしかるべきだったのではないかと感じた。あと、本書でポストモダン思想が徹底的に貶されているが、わたしにはトランピズムとポストモダン思想にさほど関係があるとは思えないのだが。なんか、そういう主張にはバカバカしさを感じるのであるが、これはポストモダン思想を(よくわかりもせずに)ずっと読んできたわたしの愚かしさゆえかも知れない。ただ、著者もまた何かに取り憑かれているのは明白で、それこそポストモダン思想の「正しさ」をある意味「証明」しているようにも読めた。クソですね、わたしは。

真実の終わり

真実の終わり

クソの大衆らしく下らないことを書くと、著者はなんでこんなにエラソーなんだということである。我々はエリート様の正しい託宣を恭しく拝聴し、拳々服膺するしかないのか? 仰っていることがむずかしすぎてわからないのだが、だまって聞けということなのか?


イサク・ディネセンを読む。