加藤典洋『増補 日本という身体』

日曜日。
ごろごろしながら明かりを点けたまま寝てしまい、深更ひどい悪夢で目覚める。
二度寝。すこぶる印象的な夢を見る。


曇。まだまだ多少暑い。
夕方、珈琲工房ひぐち北一色店。加藤典洋さんの『日本という身体』という本を読む。何が何だかさっぱりわからない。古事記(だったっけ)の「アシカビのごとく萌え騰がるもの」だとか、「ムクムクと膨張するパン種」(何それ)だとか、ある雑誌のタイトル通覧から得た「大」「新」「高」だとかは冗談かと思っていたら、これらが中心概念となって(これまで読んだ部分では)明治以降の日本史が論じられる。加藤さんはほんとにアナロジーの人、「類似」の人で、わたしのごとき「差異」の凡人にはほとんどコジツケの論のようにしか見えない。あるいはバカバカしいといいたくなるところだが、それは言えない。わたしは加藤さんとは比較にならず読んでいないし、考えてもいないから。何か参考になるところがあるかも知れないから、頑張ってさらに読んでみるつもり。
 加藤さんの冗談は何か奇妙なところがある。高校の歴史教科書の各時代の取り扱いのバラバラさ加減を、牛の肉の「肩」「バラ」「もも」「すね」などのバラバラぶりと比較して、cow の魂が抜けているというのには笑った。beeves なんだって。何でそんな突拍子もない発想が出てくるのだろう。これこそ加藤典洋的な感じがする。

第四章まで読んだ。加藤さんのアナロジーはほんと突拍子もない。フロイト中二病的理解に、夢で棒のようなものが出てきたらそれはペニス、みたいなどうしようもないものがあるが、加藤さんのアナロジーはそのレヴェルではないかとわたしには思えてしまう(「桃色の室」!)。しかし、加藤さんはいまや生前よりも評価されつつあるように思われるから、わたしの誤りはどこにあるか、知りたいものだ。加藤さんと同じ「類似」の人である東浩紀さんなども加藤さんを高く評価しているし。確かに「類似」を見つける能力はそれだけで滅多にない才能である。ただ、東さんはまた鋭い「差異」の人でもあるので、学問的検討にも堪える論考を書かれることになるわけであるが。いずれにせよ、凡人にはわからない領域なのかも知れない。

図書館から借りてきた、加藤典洋『増補 日本という身体』読了。やはりわたしの頭が悪すぎて、加藤さんが何をいっているのかさっぱりわからなかった。ただ、補章に驚くべき文章があったので、引用しておきたい。これは加藤さんの文章ではなくて、吉本さんの言葉である。孫引きする。「多数を占めているのは、第二次産業第三次産業の境界に起こる公害だということは理論的に歴然としています。どういうことかというと、精神の障害の問題だと思います。境界線のはっきりしないボーダーラインでの、精神の異常とか正常といったことが」、「潜在的にいちばんおおきな公害問題だし、これから起こってくる公害問題も、主にそこにいくことは疑いない」。(p.341-342)これは『大状況論』(1992)という著作にある言葉らしいが、これには驚かされた。わたしにはこれはよくわかる。現在を見通した、まことに正確な洞察という他あるまい。

しかしどうでもいいのだが加藤さん、ポオの「ユリイカ」を受けてアインシュタイン相対性理論が出来上がった(p.262)というのは、さすがにめちゃくちゃだと思いますよ…。いくら「コンシステント」とかいっても、そんな事実はありません。


藤原彰を読む。