梶谷懐&高口康太『幸福な監視国家・中国』

曇。
早起き。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十一番 K.331 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。終楽章の「トルコ行進曲」が、多少速めのテンポでなかなかよかった。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十二番 K.482 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル、指揮はリッカルド・ムーティフィルハーモニア管弦楽団NML)。

■バッハのトッカータとフーガ BWV565 で、オルガンは中田恵子(NML)。この超有名な曲をひさしぶりに聴いた。もう十年以上聴いていなかった気がする。バッハの極若いときの作品である筈だが、既にたいへんな劇的構成力だ。やはりよい曲だなと思う。

Joy of Bach ~ J. S. バッハ : オルガン作品集 / 中田恵子 (Keiko Nakata) [CD] [Import] [日本語帯・解説付]

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午前中、甥っ子の勉強を見る。

昼から、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー378円。これまで記していないが、梶谷先生と高口康太氏による新書本『幸福な監視国家・中国』を読み続けている。第六章まで読んだ。高口氏は中国を専門としているジャーナリストのようで、梶谷先生はこのブログでも何度も登場している、中国経済の専門家(それに留まらないことは本書が証明しているが)である。専門を異にする二人の共著ということで監視国家としての現代中国を浮き彫りにする大変重要な本が出来上がったという印象だ。監視国家としての現代中国は日本ではかなり歪められた像が流通していることが本書からわかるが、高口氏のルポルタージュも衝撃的であるけれども、わたし個人としては梶谷先生の理論的考察はそれ以上の衝撃だった。梶谷先生のパートは話題になったウェブ版ニューズウィーク連載がたぶんひな型であり、そのニューズウィーク連載についてはこのブログでも簡単な感想文(参照)を書いたけれども、書籍化にあたってかなり加筆されているような感じである。しかし、残念ながらわたしの不勉強と能力不足で、正確な理解はわたしには無理だ。特に、政治学や広義の社会学の勉強不足、理解不足を痛感する。ただ、(わたしの不勉強たる)「市民社会」や「功利主義」概念の明快な整理などもあって、本書の「講義」で何とかついていっているという体たらくである。ニューズウィーク連載でも、「監視社会」は我々「市民」が望んでいることであるという視点が衝撃的(衝撃ばかりですが)だったが(東浩紀さんの「情報自由論」の議論が参照されていたりした)、それが実際に中国で「証明」されているように見えるところがさらなる衝撃であり、本書タイトルの「幸福な監視国家」の意味がそこにある。つまり、リスクの最小化という点から、我々は監視されることをむしろ望んでいる側面があるのだ。そして、それは政治的手法のネット的洗練と AI化の進展で、不可視化されつつあるようである。これは決して中国のみの話ではなく、日本も含む先進国家に共通の課題であることも浮き彫りにされている。(もっとも、「民主」などの概念は中国の特殊性もあることが忘れられてはいない。)
 しかし、正直なところをいうと、わたしのような平凡人は「監視社会の到来の不可避性」というところで、何だかもうイヤになってしまったのが否めない。この問題を突き詰めていくと、倫理性や人格といった生きる上で基本的な「与件」まで変質せざるを得なくなってくるのだ。これは、わたしのような単純で古くさい人間からすると、生きるのがイヤになってくるような話で、じつのところ若い人たちに任せた、硬直化したおっさんは無視して欲しいとすら言いたくなってしまうところがある。世界、どうなっちゃうのだろう。

幸福な監視国家・中国 (NHK出版新書)

幸福な監視国家・中国 (NHK出版新書)

続けて読む。

梶谷懐&高口康太『幸福な監視国家・中国』読了。最終章も読んだ。監視国家のポジティブな(?)面ばかりでなく、ここでは中国政府による新疆ウイグル自治区における政治的「弾圧」にページを割かれており、まとめると「道具的理性の暴走」ということになる。このような視点は、もとのニューズウィーク連載ではあまり記憶していなく(テキトーな記憶であるが)、ソフトな監視だけでなくハードな「管理」も中国で起きているという事実の指摘であろう。
 しかし、本書タイトルにもある「幸福」とは何だろうか。本書は一貫して「功利主義」の描く「幸福」(つまり「最大多数の最大幸福」)を採用しているといえるだろうが、わたしのように古くさい人間には、「幸福」というものは個人的なものであって、「最大多数」といわれるような集合的なものなのだろうかという素朴な疑問が拭えない。というか、そもそも「幸福」というのは計量できるものなのだろうか。しかし、いまの現実として功利主義を切り捨てることが無理なのは本書からもよくわかるところである。結局、わたしのような者の実感は切り捨てられ、若い人たちの実感に世の中は取って代わるのである。梶谷先生はそこにもワンクッションおいていて、いわばわたしのような者の実感を切り捨ててよいものだろうかという問題提起もなされておられるが、さてはてどうなることか。
 いずれにせよ、本書は今年のわたしの「お勉強本」の中でも、これまででもっとも重要な書物であることは明らかである。これからの時代を考えたい方には、ちょっと(いやかなり)むずかしいが、必読書といってもよいであろう。一読して、わたしは意気消沈してしまったところもあるのだが。