こともなし

晴。

午前中、甥っ子の勉強を見る。

コヴァセヴィチの CD BOX セット落手。


夕方、吉本さんの『共同幻想論』の再読の続き。わたしにはわからないところも多いが、とてもおもしろい。全体の三分の二を読んだが、本書が国家論でないことがますます明らかになっている。もちろん、この先で国家論を含むのであろうが。それにしてもわたしはヘーゲルマルクスもいいかげんにしか読んでいないので、というかまともに読めていないので、全然お話にもならないと思う。まあ、吉本さんのヘーゲルマルクス理解は独特な(それで相手にされていない)ようにも思われるけれども。

しかし、わたしが結婚していなくて子供もいないことが、こうした本を読むのにハンデを負うことになるとは。なに、そんな個人的なことが読書に関係するのか? 吉本さんの場合は、それが大いに関係するのである。吉本さんは、自分でがっちり掴んでいるものを基礎にしていて、つまりはいつもどおり、自分もまたファクトのひとつであることを堂々と利用している。そこらあたりが、吉本はうさんくさい(あるいは滑稽)といわれるところかも知れない。外国のもっともらしい文献でお茶を濁したりしないのである。それがいかに下らない態度といわれても、わたしもまたそういう理解の仕方を、いろいろと次第に学んできたわけである。それがどう言われようがかまわないのだ。

吉本さんが苦労しているのは、見えているものを論理に落とし込む作業である。吉本さんに見えているのは、必ずしもロジカルな姿をしていないので、必ずしも論理化がうまくいくとは限らない。これもまた、いつものことだ。つまり、これはパズルを解いているのではないのだ。むしろ、地中に埋もれているものを掘り出すに近いか。

吉本さんとブリコラージュ。


このところ行き詰まっているのを感じる。その時に応じて自分がどうすればよいか悩まずわかればよいが、そんなわけにはいかないのが自分の未熟さだ。ただただいろいろ工夫するしかない。