未熟さについて

雨。

昼から県営プールに行くも、駐車場が入場規制で入れず。仕方がないので金華橋から鶯谷トンネルを通って帰ってきた。泳いでさっぱりしたかったのだが残念。

世界が意味でがんじがらめになっている。ついに日本も全面的にそうなって、希望がどこにもない。怠惰でだらしがない筈の民衆はどこへいっちゃったのかな。窒息しそうである。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー410円。何だかほとんど本を読む気がしないので、吉本さんの文庫版『共同幻想論』を読み返してみることした。中沢さんの増補改訂版『アースダイバー』を読んで気になっていたのである。さて、最初に本書を読んだのはいつなのだったか。学生のときか、三十代になってからか。もちろんいま本書は一般にまったく問題になっていない。わたしが小むづかしい本ばかり読んでいた頃、本書を読むくらいならむしろ『想像の共同体』(ベネディクト・アンダーソン)でも読めと、これは柄谷行人かその周辺かが言っていて(うろ覚えである)、それをわたしはマジメに信じてきた気もする。まあ、いまではそのベネディクト・アンダーソンさえ、読まれているのか知らないが。
 今回読み直してみると、しかし本書はベネディクト・アンダーソンとはまったくちがった本であるように思える。まあわたしにはむずかしいことはわからないのであるが、吉本さんの(名前だけは)有名な「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」というのは、まず本書で最初に学問的な定義があるというわけではない。これらの語が、初めにポンと投げ出されているだけで、あとはまず柳田国男の『遠野物語』を題材とした分析がずっと続く。以前読んだときは、これが何だかよくわからなかったものだ。今回冒頭 100ページあまりを読んでみて(おもしろすぎたので敢てそこで中断した)、なるほど、『遠野物語』を素材として、「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」という言葉をいきなり使う仕方で、これらの語の意味がふくらんでいくように書かれているのだということがわかった。そして吉本さんは、題材の「幻想」を徹底して解体していくのである。ここでも吉本さんの「解体」で、自分が思うようになったところでは、吉本さんの仕事の系列のひとつとして「解体」というモチーフがあるように思われる(これは中沢説のパクリであろう)。例えば『最後の親鸞』における宗教の解体。まあしかし、それはちょっと話が大きすぎる。とにかく、ここで『遠野物語』が選ばれたのは、ひとつの例にすぎない。また別の例として、フロイトが何度も召喚されており、フロイトもまた解体されているのは同じことである。吉本さんは『遠野物語』にもフロイトにも辛辣であるが、そこにはじつは大きなリスペクトがあると思ってよいような気がする。

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

なお付記しておくが、吉本さんのいう国家は「共同幻想」であるけれども、「共同幻想」は国家であるとは限らない。何か誤解があるような気もするので、老婆心ながら。

鈴木大拙を読む。吉本さんを読むのもそうだが、はなはだ心楽しい。しかし、こういう人たちを読むと自分の未熟さを思わずにはいないが、その未熟さというのはわたしと切り離すことはできない。読まれる方は未熟未熟とあるいはまことにうっとおしいと思われるかも知れないが、それがわたしの強い実感であるし、これを忘れたわたしはわたしではないと思う。そもそも「わたし」などというのが未熟である、「わたし」などはないのにと気の利いた人ならいうかもしれないが、そういいたい方はいえば結構である。現在だって未熟でない方はおられるが、まあ大部分はひどいものである。そもそも未熟であるということはまだ向上の余地があるということだ。人間のクズならクズなりに進歩するかも知れない。バカならかしこくなるかも知れない。それはつらいところもあるが、楽しいことでもあるまいか。そして未熟であって己の未熟を知らない人よりかは、なんぼかマシな話ではあるまいか。

しかし、それこそ未熟な話だが、わたしは知らぬ間に本当にガマンしていたのだな。決壊してみてその終わらなさに驚かされた。どうであろうと遅かれ早かれそうなったことであろう。