長谷川四郎『長い長い板塀』 / 比佐篤『貨幣が語る ローマ帝国史』 / 野呂邦暢『随筆コレクション2 小さな町にて』

曇。
昨日は安永祖堂老師の新刊(?)を読んで寝た。老師は好んで文章を書かれる方ではないが、一本にまとめられたものを拝見するとやはりもっと書いていただきたいものだと思う。それにしても老師もかつてインターネットの匿名サイト(かつての「2ちゃんねる」のことだろうか)をどう考えるべきか悩まれた形跡があるが、平田精耕老師(安永老師の師匠である)の仰られた「灰袋」として片付けておられた。「灰袋」というのは、叩けばこちらがきたなくなるだけだから、放っておけというものだそうである。そんなものを相手にするほど、人生は長くないと。わたしも、例えばツイッターなど放っておくべきなのだろうかと思うが、また、わたしのようなつまらぬものが、それだからこそ相手にしておればよいのかという気もする。敢て時間のムダをする、と。いや、それではやはりいけないのかも知れない。

しかしいまのツイッターはかつての2ちゃんねるとは比較にならない汚さと、重要性をもっている。ツイッターには正義と有用性が溢れているからだ。そして、いまや合衆国の大統領や政府高官が気軽に政治的ツイートをするように、現実そのものでもある。日本でも優秀な(若い)学者たちが多くツイートし、叩き叩かれブロックを繰り返している。わたしはあれは阿鼻叫喚地獄であると思う。あれで、確かに世の中はよくなり、進歩するであろう。では、お前はそれの何が問題だというのか?


NML で音楽を聴く。■モーツァルトクラリネット五重奏曲 K.581 で、クラリネットはウォルフガング・マイヤー、モザイク・クァルテット(NML)。

Qnt Cl/Trio Kegelstatt

Qnt Cl/Trio Kegelstatt

ショパンのバラード第一番 op.23 で、ピアノは佐藤卓史(NMLCD)。


コメダ珈琲店各務原那加住吉店。ミックスサンドトースト+たっぷりブレンドコーヒー1140円。別にふつうの味なのだが、つまり特別おいしいとかでなしに、ここで昼飯を食うといつもミックスサンドトーストになってしまうな。でもまあふつうに美味いのである。コーヒーがもっとおいしいとよい。
図書館から借りてきた、長谷川四郎『長い長い板塀』読了。エッセイ集じゃなかったな。実験的小説なのだが、長谷川さんが書くとあんまり実験的小説の気取った感じがない。「ユーモア」があるからだろうね。特別おもしろいわけでもないのだが、つまらなくもない。1976年、河出書房新社刊。

 
比佐篤『貨幣が語る ローマ帝国史』読了。肩の凝らない一般向けの書物であるが、おもしろく読むにはローマ史に関するある程度の知識が必要であろう。セラピス神やキリスト教のような普遍信仰がローマ皇帝の神格化の普遍性によってその受容の準備をされたというテーゼはわたしのような素人からすると一概にそう断言できるかどうか多少疑問視されるが、おもしろい考え方だと思う。しかし、果たしてセラピス神とキリスト教を同一視してよいものであろうか。また、キリスト教はその前身としてユダヤ教という一神教をもっている。が、まあ専門家のいうことだからそうなのだろうな。

図書館から借りてきた、野呂邦暢『随筆コレクション2 小さな町にて』読了。いやあ、ようやく読み終わった。何を書こうかと思っていたが、岡崎武志さんのすばらしい解説を読んだら余計なことはいらないとわかった。個人的なことを交えながら、じつに見事に筆を運んでおられる。さすがに実力者であると思った。本書に関して一言だけ書いておけば、巻末の新発見の美術エッセイたちは非常によいものですよと言いたい。恐ろしさすら感じた。岡崎さんの文章にもあるが、野呂は「視覚の人」であったのだ。ちなみにだからと言って音楽に鈍いわけでなく、野呂の理解力の幅広さに驚かされざるを得ない。
 それにしても、芥川賞受賞からたった五年半の生しかなかったとは。またしても岡崎さんの言だが、「生き急いだ」という他ない。

なお、余計なことかも知れないが気になってしまうのは、Wikipedia によると野呂は死の前年に離婚しているらしいけれども、随筆にもまた他人による解説等の文章にも、奥さんのことが出ていないように思われることである。どういうことなのであろうか? (追記。野呂は随筆・書評で「小説は女が書けるかどうか云々」ということを何度も書いている。)

厳密には野呂のことではないが、いまだ心に残っていることがあるので書いておこう。本書所収の書評(湯川達典「文学の市民性」)に、野呂が引用している文章がある。書き出しだという。「わたしは本当に時々、わたしがこの世に生まれて来たのは、他でもない、ただ、ああして、友達といつまでも色々なことを語り合うために、ただそれだけのために生まれて来たのではないかと思うことがある。その他のことはみんな生きてゆくための付属的な事がらにすぎない」(p.451)。わたしは数日前に気取ったことを書いたけれども、このような言葉がわからないほど貧しい青春を送っていないことは確かである。わたしにもまた、何について語り合ったのか、いまから思えばそのほとんどを記憶していないが、ただ語り合うことそのためだけに熱心に語り合った友人がいたのだ。それだけで、わたしの人生は生きるに値するものだったとわかる。思えば、わたしの青春時代は、決して貧しいものでなかったのだ。
 野呂もまた、上記の文章を引用するような人であった。書評されたこの本は、地方で自費出版された本であるそうだ。