鈴木大拙『一禅者の思索』

曇。
暴力とセックスと純情のハードボイルド冒険活劇を夢に見るというのは、オレの頭の中は相当にお花畑だな。どうなっておるのだ。精神分析学的「補償」かな?

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第三番 BWV814 で、ピアノはシェン・ユエン(NMLMP3 DL)。■ジョン・ダウランドの「蛙のガイヤルド」、「ファンタジー」、「サー・ジョン・スミスのアルマンド」、「彼女は私の過ちを許すだろうか」、「はかない望み」、「クリフトン夫人の風情」、「ホワイト夫人に事あり」、「ホワイト夫人に事なし」で、ギターはマイケル・バトン(NMLCD)。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第七番 op.108 で、演奏はフィッツウィリアム弦楽四重奏団NMLCD)。


このところブログにクソマジメすぎることばかり書いているが、実生活ではできるだけ、あれこれ取り留めもなくぼーっと想念を浮かべながら、ベッドに転がってごろごろするようにしている。そのまま寝てしまえればいちばんよいのだが、なかなかそうもいかない。非生産的でだらしのない下らない人間が、まあ目標というほどではないが望ましい。いまや世の中かしこくて有用勤勉な立派な市民に満ち溢れているので、わたしごときがぼーっとしていても社会は発展また発展、万万問題ないことは確信されている。そんなクズは邪魔だから死んだほうがよいというのも一理ないではないが、誰でもマウントを取れるクズが存在した方が、皆さん何かと精神の健康のためにもよろしいのではないか。いつからか世界から被差別階級がなくなったことはないのだし、将来もあり得ない。それは、不満のはけ口がないと人間は生きていけないからである。それに、クズがいなくなったら、もしかしたら自分がクズになっちゃうかもしれないではないか。それは、コワい。

というわけでということもないが、寝てました(笑)。言い訳がましくてはあんまり不まじめになっていないかな。


たまたま鈴木大拙の「大地と宗教」という小文を読んでいて、そこでは大拙は「人間は大地を離れてはいけない」といっている。そんなことを言ったっていまや高層マンションの上の方の階で育つ子供もいるくらいだから、大拙みたいなことを言ってももうどうしようもないのである。そもそも、いまでは大拙の言っている言葉の意味がわからない人が少なくあるまい。「大地を離れる? ハァ?」てなものである。なんでそれがいけないというのか? ということだ。まあそれは措いて、この文章は1942年の講演を活字にしたものである。まだ戦前で、高層マンションどころではないのに、大拙はそんなことをいっているのだ。さらに大拙は、近代化の不可避もわかっていて、自分にはどうしてよいかわからないとも述べている。大拙はわからないそうであるが、自分もどうしてよいか全然わからない。わたしの住んでいる田舎でも我々はどんどん大地から遠ざかっており、わたしがしょっちゅう訪れているイオンモールなどは大地からの離脱の極致である。そして、いまやその完全人工物の世界に郷愁を覚える世代が大人になっている。まあ、楽観的に見れば、そんなことは大した問題ではなく、それはそれで新しい世代はうまくやっていくのかも知れない。

世界を完全にコントロールできるという思想は、まさに大地からの離脱から生まれたそれだろうな。そのうちかかる思想は極ふつうのものになっていくだろうし、いやすでに高度にそうなっている。東日本大震災のあと、日本は東北の海岸線を「万里の長城」で覆うことにした。この傾向が当り前のものになるという意味である、わたしの言いたいのは。

既に我々の少なからずは、人生すらも完全にコントロールできると思うようになっている。特に若い世代ほどそうだ。そこからは往々にして、我々は必ず死ぬ、そしていつ死ぬかわからないということを忘れがちになっている。

強い雨
鈴木大拙『一禅者の思索』読了。再読である。非常に勉強になった。またそのうち読み返したい。

一禅者の思索 (講談社学術文庫)

一禅者の思索 (講談社学術文庫)

エッセイ集のようなある連作短編集を読み始めるも、あまりおもしろくないので 30分くらい拾い読みする。でおしまい。

図書館から借りてきた、高橋源一郎さんの長篇『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』を十五分くらいで読み終えた。というのはもちろんきちんと読んでいない。僕は源一郎さんの忠実なファンであり読者であったが、このところ精神が硬直化してきて、時代的に進んだ源一郎さんが読めなくなってしまったようである。そりゃわたしは、いまさらコバヤシヒデオとかいっているクソだからね。マジメに読もうとするとネムい。p.132~p.134 あたりは爆笑した。さすが源一郎さん。でおしまい。

 
20190627214644
けものフレンズ」第11話を見る。