「アジア人としての日本人」の終焉

曇。
昨晩は柴田宵曲を読んで寝た。これぞ不要不急の読書というべきだろう。ヘイトとフェイクニュースの時代に柴田宵曲を読む意味がどれほどあるかは知らない。明治は鎌倉時代なみに遠くなった気がする。

NML で音楽を聴く。■バッハの組曲 変ホ長調 BWV819a で、ピアノはシェン・ユエン(NMLMP3 DL)。この曲、初めて聴くが、未完なのではないか。ふつうは最後にジーグが来る筈。■ハイドン交響曲第八十七番 Hob.I:87 で、指揮はエルネスト・アンセルメ、スイス・ロマンド管弦楽団NMLCD)。■シューベルト幻想曲ハ長調 D934 で、ヴァイオリンは堀米ゆず子、ピアノは野平一郎(NML)。これはすばらしい。いままで何で堀米ゆず子さんを聴いてこなかったのかな。エリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝したときのシベリウスには度肝を抜かれたのだが(参照)。たぶん、たんに忘れていただけだったな。もっと堀米さんを聴きたいね。なお、このディスクの伴奏者は野平さんで、それもよいですね。

堀米ゆず子 ヴァイオリン・ワークス1 音楽の旅-叙情を求めて

堀米ゆず子 ヴァイオリン・ワークス1 音楽の旅-叙情を求めて

ああ、なーんだ、NML に全然ないや。そりゃ人気ヴァイオリニストですものね。NML に入れるのはもったいないということでしょうな。


夕方、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー410円。ちょっと未来屋書店に寄って買ってきた、中公新書の『ポピュリズムとは何か』というのを読む。これはかなりおもしろい。ゆっくりと第二章まで読んだ。ポピュリズムというと自分にはどこかネガティブなイメージがあったのだが、そんな簡単なものではないことがまずはわかった。もともと反エリート、反エスタブリッシュという面があって、例えばその濫觴である合衆国の「人民党」(十九世紀末に、そんな政党があったのだ)とか、アルゼンチンのペロン政権とか、むしろ国家・政策の「民主化」に大きく貢献しているのである。ポピュリズムには「カリスマ指導者」がいる場合が多くて、それで民主主義に反するというところもあるのだが、しかしその「大衆性」から言って、むしろ民主主義の補完者として位置づけられるところがある。なかなか簡単に否定できるものではなさそうだ。ただ、「反エリート、反エスタブリッシュ」という点が強調されると、政策が右派的なのか左派的なのか、それははっきりしないともいえる。その置かれた状況において、玉虫色的に変化してしまうのだ。うーむ、なかなかむずかしい。さて、このあと、ヨーロッパにおけるポピュリズムの説明がある。続けて読む。

自分がいま政治ということで何に反応しているか考えてみると、確かに人間が完全に平等ということはそもそもあり得ないのだけれど、しかし個人の間に大きな経済的格差があるのは許容できないというのがあるのではないかと思う。それは自分が貧乏人であるから引き出されてきた考え方だろうし、そこからすればまあ当然だろう。だから、金持ちが大きな格差を肯定するというのも、まあ当り前といえば当り前だ。現状を見ると、金持ちと貧乏人を比べると貧乏人が圧倒的に多いし、格差はあまりにも大きいし、金持ちが権力を握っているように見える。これは貧乏人のバイアスに満ちた現状認識であろうか? こうなると、自分は左派なのではあるが、むしろポピュリズムを支持することになってしまうのか?

わたしは思うのであるが、自分はあるいはアジア人としての最後の日本人に属するのではないか。いまの(少なくとも)エリートたちを見ていると、ほぼ完全に「西洋人としての日本人」になっている。古典はすべて西洋の古典であり、自分たちのアイデンティティとして古来の日本文化の蓄積を放棄して、わずかにマンガやアニメ、あとはせいぜい村上春樹くらいしかない。それは、西洋人たちもそう日本人を見做すようになった。そしてどうでもいい話だが、それで西洋人たちは安心したと思う。わたしは武満徹の伝記を読んで、戦後でもある時代までは、西洋がいかに「アジア人としての日本人」に注目せざるを得なかったかを痛感したものである。それは確かに日本の戦後の、西洋諸国をも凌ぐ経済発展によるものではあったろうが、西洋はとにもかくにもそこに真剣に東洋を見出すことを強いられた。それはいまとはまったく異なるのであり、西洋人もまた、いまや日本をマンガやアニメ、村上春樹の国と捉え、日本人をそれらしかアイデンティティのない人たちだと見做している。ある意味では、「三流の西洋人としての日本人」として。それはもう、取り返しのつかない時点まで到達してしまったのだが、さてこれから日本人はどこへいくのだろうか。わたしはそれを見届けて死にたい気もするのだ。

って吉本さんのことを考えていたら妄想した。吉本さんはまちがいなくふつうのアジア人だったし、それに自覚的でもあった。なお、わたしはマンガやアニメ、また村上春樹を低級なものと見做しているというわけでは別にありません。それらももともとは、アジアのコンテクストをもっていたと思っていますし。

p-shirokuma.hatenadiary.com僕はシロクマ先生を読んでいるといつもムカつくのであるが、それでも読むし、これはおもしろかった。このエントリはたぶんバズるし。しかし、シロクマ先生はこれを多少の「悪意」(?)というか皮肉も込めて書いておられると思う。だって、シロクマ先生は既婚者で子供もおり、子育ての大変さとともにその喜びも享受されていることを、他のエントリで隠しておられないから。それにしても、まあ田舎でも事情は大して変わらないとはいえ、東京圏はすごいことになっておりますなあ。なんか日本人の自業自得を感じる。ってわたしのようなひきこもり独身中年が他人事のような顔をしているのはまちがっていそうだが。

しかし、男性が女性にアプローチしたらいまやセクハラと見做されかねないというのは、ホントにそうですね。男性がそのリスクを回避するのは当然である。これも自業自得。


ハイドンのピアノ・ソナタ第六十番 Hob.XVI:50 で、ピアノはポール・ルイスNML)。時々この曲が聴きたくなる。これはこの曲のカッコよさを充分に表現した演奏。残りを聴くのが楽しみ。

ありゃ、このディスク一年前に聴いていた(参照)。orz…。■ドビュッシー前奏曲集第一巻で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。僕には野平さんのドビュッシーを 40分間聴くというのは、しんどい…。じつに聴き応えのある演奏だった。ホントすごい。