西村賢太『下手(したて)に居丈高』 / 東浩紀『ゆるく考える』

日曜日。曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第一番 BWV825 で、ピアノはファブリツィオ・シオヴェッタ(NML)。このピアニストはピュアだな。聴いていて気持ちがよい。

Bach, J.S.: Keyboard Suites

Bach, J.S.: Keyboard Suites

 
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第四番 op.83 で、演奏はフィッツウィリアム弦楽四重奏団NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第二番 op.19 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチ、指揮はクラウディオ・アバドマーラー室内管弦楽団NMLCD)。マジよいな。自分はベートーヴェン好きすぎである。ちなみにこの曲、アルゲリッチは 100回以上演奏しているのだとか。でも全然ルーチンでないのが天才の証であろうか。■アルヴォ・ペルト交響曲第四番「ロサンゼルス」で、指揮はエサ=ペッカ・サロネン、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団NML)。ペルトは通俗ギリギリのところなのだが、つい聴いてしまうな。しかし表題が「ロサンゼルス」っていうのはちょっと謎で、いつものごとく「ストックホルム」とか「ヘルシンキ」(ってよく知らないが)という感じなのですけれども。まあ、ロサンゼルス・フィルなのですな。委嘱作品なのかな。

 

珈琲工房ひぐち北一色店。図書館から借りてきた、西村賢太『下手(したて)に居丈高』読了。随筆集。こういう本物の文学を読んでいるときが、いちばん「本を読んでいる」という感じがするな。著者は図書館で借りてきて文学を読むなんてのは、そんなのは文学を読むといえるのかねみたいなことを言っているので、つまりはまあ自著を買って読めということですから(文筆家としては当然の態度である)、文庫本の人であるわたくしなどは西村賢太の文庫本でも揃えようかな。結構出ているのだよね。でも、もうだいぶ持っているのですよ、西村賢太の文庫本は。

下手に居丈高 (文芸書)

下手に居丈高 (文芸書)

 
東浩紀さんの「なんとなく、考える」という十年前の連載を電子書籍で読んでいるのだが、つくづくおもしろい。何という才能であり、頭のよさであろうか。東さんは頭がよすぎてものを書いていると論理で自縄自縛に陥っていくのであるが、そこからコンスタティヴ、パフォーマティヴ両面で隘路を打ち砕いていこうとする姿がすばらしい。つまりこの連載の言葉で言い換えると、マジメに考えてハマっていくのをマジメと不まじめの両方を駆使しながら、だらしなさそうな感じも見せつつ脱出していこうという実践である。わたしは iPad mini を持ちながらごろごろ寝転がって(不まじめな格好で)読んでいる(すみません笑)のだが、繰り返すけれどもマジでおもしろい。そして、自分の時代遅れぶりをこれまたつくづく感じて感慨にふけってしまう。わたしと東さんでは年齢差はわずかであるが、その間には超えられない壁が厳然とある(年齢差だけには還元できまいが)。だからどうというわけではないけれどもね。
ゆるく考える

ゆるく考える

つい「マジメと不まじめの両方を駆使」なんて書いてしまったが、しかし「マジメと不まじめの両方を駆使」するというのは果たしてマジメなのか、不まじめなのだろうか。これはどちらを取ることもできると思うが、ちょっと考えてみるとおもしろい。というか、「メタ思考」とか言って切り捨ててしまわないで、こういうことを考えるのが重要な意味での「考える」ということではあるまいか。東さんも連載で頑張っておられる。

「なんとなく、考える」は連載20回で中断終了。連載の最初の方は元気がなかった東さんだが、最後の方は「朝生」でのよい意味での「放送事故」やら、ツイッターを始めて(2009年だったんだ…)その可能性を高評価していたり、小説の好評だったりと、えらく元気になっている。こうなると、上に書いたことはかなり誤読ですね。それにしても、十年前はまだ東さんもネットの可能性を素朴に信じていて、いまのネットへの一種の幻滅を見ると時代も東さんも変ったのだなあと思う。いまやツイッターが悲惨な SNS になっているのも、たぶん当時では予想もできないことだったのだろう。まさにツイッターこそが現実そのものだという時代がくるとはたぶん誰も思わなかった。さて、続けて読む。

東浩紀『ゆるく考える』読了。