堀越豊裕『日航機123便墜落 最後の証言』

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第二十一番 K.575 で、演奏はクレンケ四重奏団(NMLCD)。この曲も含む三曲のいわゆる「プロシャ王セット」は注文されて書かれたもので、結局途中で挫折(?)しているという、モーツァルトは明らかに乗り気でなかった。そのためか自分もこれまでいまひとつよくわからなかったのだが、今回聴いてみてさすがにモーツァルトだなと思い直した。モーツァルトははっきりと筆を抑えて書いているが、シンプルでそれなりによい。それにしても、モーツァルトが書きたい音楽を書くほど人気が落ちていくので、自分の思いどおりに書くかどうかがモーツァルトの悩みになっていくとはむずかしい話である。まだモーツァルトは世間では「芸術家」と認知されていなく、というかそういう存在はまだなくて「職人」しかいなかったから、そうなったのだ。そして、モーツァルトの直後に来たベートーヴェンあたりが、そこいらのことを大きく変えていくのである。いまや、「芸術家」となるといかに「自分らしく」ふるまうかということが問題になっているわけだが。自分なんてある意味では錯覚なのだけれどね、これもまた陳腐な真実であるけれども。■シェーンベルク交響詩ペレアスとメリザンド」 op.5 で、指揮はジュゼッペ・シノーポリフィルハーモニア管弦楽団NMLCD)。フィルハーモニア管時代のシノーポリはすごいな。まあその後だってすごいのだけれど。■フランクの「オルガンのための六つの小品」 ~ No.1 Fantaisie in C Major で、オルガンはジャン・ラングレー(NML)。

César Franck à Sainte-Clotilde

César Franck à Sainte-Clotilde

  • 発売日: 2010/03/15
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精神現象学』は「自分」というものが「絶対精神」にまで高められていく過程を記述した、吐き気がするほどいやらしい形而上学である。まあ、ヘーゲルが気持ち悪いというよりは、その哲学が気持ち悪い気がするが(極東のバカの妄言です。笑)。


政治的立場を明らかにするとか下らないといえば下らないが、マジメなことばかりしているとバカになるので下らぬことを書くと、わたしは相変わらず消費増税には反対である。それで景気はまちがいなく悪くなるし、そもそも逆進性の強い消費税に対しわたしのような貧乏人が反対するのは何の不思議もない。それに、過去の消費税分はそっくりそのまま法人税減税に使われているのが事実なので、将来の世代のためとかおためごかしをいう財務省のウソにはさすがにお前うんこだろといいたくなる。しかし野党、特に旧民主党議員はいまでも何の反省もないので、自分たちの過去の経済政策はまちがっていましたとはっきり言わないと支持はないのではないか。さすがに国民は皆んな知っていると思いますよ、君たちのやった犯罪的行為を。

なお、法人税を減税しないと日本から企業が逃げていくという論があるが、これはほとんどウソである。租税回避ということはそんなに簡単にできるものではないので、例えば登記を外国へ移すくらいのことでは不可能である。そもそもそれが簡単ならばどの企業でもやっているに決っているではないか。貧乏人のわたしは、法人税増税累進課税の強化以外、道はないと思っている。もっとも、これができる政治家はひとりもおるまいが。

それから、いまの日本企業に欠けているのは、もうかったら給料をしっかり上げる、これだと思う。そうすれば、皆んな消費に回す分が増え、それで景気がよくなり、自分たちの会社の製品もさらに売れるようになる。よいサイクルで日本も元気になる。なに、単純すぎる? そんな簡単なものではない? ちがうのである。事実はこれほどまでに簡単なものなのである。日本人のお好きな、外国の現実を調べてご覧なさいといいたくなる。いま日本の企業のやっていることは、非正規労働を増やし、できるだけ給料を出さないということだ。これで、逆のサイクルが回る。まわるーまーわるよ。ま、日本人はそうしたければ好きにすればいいのだけれどね。バカなオレは知らんけど。そういや、所得倍増計画とかかつてあったな。

しかし、むなしいな。こんなことを書いて何だという気がする。所詮ムダといえばムダ。

好景気になれば給料は勝手に上がるとリフレ派はかつて言っていたが、これはちょっと見通しが甘かったようだ(要出典。特に諸外国との対比、非正規労働の「常態化」)。リフレ政策というのは「期待」を変えるものであるが、給料が上がらなければ(もちろん上がらなかったわけではないが)「期待」はいずれはしゅんと萎まざるを得ない。日本企業のしみったれぶりがわかっていなかったということであろうな。そこはわたしもまちがっていたと思う。

以上、素人の妄言。


オレもどんどん老害化していくね。

イオンモール未来屋書店で新書本を探す。上でエラソーにも「非正規労働」とか書いたので、「非正規労働」とか「非正規雇用」という文字が題名に付いている新書本を探してみたけれど、なかった。結構一生懸命探したのだが。たぶんそういう本はあるけれど、買われちゃってないのかなと思う。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー378円。池内紀さんの「東プロシア旅行記を読む。僕は池内さんはさほど好きというわけではないのだが、文章が上手いのでこれまで結構読んできたことになる。その中で特におもしろかったのが哲学者カントの伝記で、これは忘れがたい本だ。カントというと謹厳実直で、いつもきまって正確な時間に散歩をするので、近所の農夫たちが時計代わりにしたというエピソードが超有名であるが、池内さんの活写するところではカントはじつは快活な社交家で、カントとの交際はとても楽しいものであったというのだった。そしてケーニヒスベルクの街からほとんど外へ出なかったにもかかわらず、その大きな港町・商業都市で暮らしながら世界中の世俗的情報に通じていたというので、まさに西洋最大の哲学者のひとりとしてふさわしく、感動させられたものである。そのカントの街は、じつは「東プロイセン」にあったのだが、東プロイセンというのはいまはない。現在その大部分はポーランド領にあり、東プロイセン(つまりドイツ)であったときはほぼポーランド領の中の飛び地であった。そして、ヒトラー第三帝国の崩壊と共に、ポーランドなど三カ国の領土に編入されられ、住民は退去させられたのであった。本書はまだ三分の一程度しか読んでいないが、予想どおり悲しい本である。まあわたしはカントのことがあって少しかつての「東プロイセン」のドイツ人に思い入れがあってそうなるので、ロシア人やポーランドからしたらまたちがうことであろう。いずれにせよ、戦争というものは悲しい。悲惨な目にあうのはいつも民衆だ。

カルコスにも寄って、「非正規労働」「非正規雇用」についてのモノグラフを探すも、ない。新書本だけでなく労働問題の棚も探したが、そもそも労働問題の本というと基本的に法律書が主である。帰宅してからアマゾンで検索してみるも、そのような語を含む新書はないようだし、単行本でもきわめて少ないのが意外だった。「非正規雇用」の現状をお勉強しようという一般人は、日本に存在しないわけだろうか。よくわからないところである。これだけバカみたいにたくさん新書本が氾濫しているのにな。

今日買ってきた、堀越豊裕『日航123便墜落 最後の証言』読了。ほぼ一年前に青山透子『日航123便 墜落の新事実』(参照)という本を読んだ。一般に「陰謀論」として一笑に付されている本であるが、わたしは一読して強い説得力を感じた。それは、この本が「実証」の本だからで、ファクトを集めて考察するという姿勢に貫かれた本である。じつは、自分はこの本がそれほど論争になっているとは知らなかったのであるが、どうやらそういうことになっているようで、本書もこの青山氏の本を否定する目的で書かれている。わたしは青山氏の姿勢に感銘を受けたので完全にそちらにバイアスがかかっていることは最初に述べておくが、本書は奇妙な対応をしている。青山氏の本は既に書いたように「論証」であり、それを否定するのは同じく「論証」でなければならない。つまり、青山氏のもっているファクトと、そこから導かれるロジックを同等の過程で否定すべきであるのに、本書はそれを「取材」であっさりと否定しているのだ。わたしは、これでは青山氏の書物を否定したことにならないと思う。じつは、わたしは本書冒頭の「書いてもらっては困るが、日航ジャンボ機墜落事故の原因が修理ミスだとニューヨーク・タイムズ紙にリークしたのは私だよ」(p.10)というあるアメリカ人の「驚きの告白」からして、むしろ本書に「陰謀」を読み取ってしまうが、まあそれはわたしの強いバイアスがなせる帰結かも知れない。本書帯の惹句には「論争に終止符を打つ決定的ドキュメント」とあるが、余計闇が深くなったように邪推してしまう。笑。ま、わたしがまちがっているなどというのは大したことではないが、何か嫌なものを見た感じがしてしようがない。

 
さて、夕ごはんも食べ終わったので(笑)、本書の青山氏の本に対する態度について、少しだけ補足しておきたい。遺体の炭化は航空燃料の燃焼によるものではないという青山氏による説明を、本書はきちんと受け止めていない。著者の反論らしきもので「大量の燃料を積んだ旅客機が山に激突して、炎上すれば、これぐらい炭化しても不思議でない」というのが、反論になっていない(わたしはこれだけで著者を信用することがかなりむずかしくなる)のは著者もわかっている筈である。ケロシンではそうならない、そもそもそんな風にならないために航空燃料にはケロシンが使われているのだというのが青山氏の主張だからである。これ以外では、著者のやっていることは「取材」にすぎない*1。青山本を否定したければ、「目撃証言は当てにならない」*2とか、「元日航機長が反論している」とか、そういうことは無意味である。
 まあしかし、自分の書いていることはバイアスに満ちているし、真実かどうかわからない。ただ不思議に思うのは、なぜ本書が書かれなければならなかったかである。青山氏の著書を否定する目的なのは明らかなのに、本書第四章までその名前が出されず、それも一見青山本に対して非常に謙虚であるように見せかけながら*3、論証態度はまったく謙虚でない、というか「論証」ではなく「取材」しかしていない。青山本を否定したければ、冒頭ではっきりと問題点を指摘し、ファクトとロジックで堂々と論破すればよい。それに、なぜ第五章で「ハドソン川の奇跡」の機長にインタヴューなどしているのか。ほとんど青山本と関係ないではないか。
 つい力んでしまった。繰り返すけれど、自分はなぜ本書が書かれねばならなかったのか、不思議な気がする。まあ、不思議な気がするのは自分だけなのかも知れないが。

追記。青山本を一蹴した元日航機長の本の論拠は、「フライトレコーダーは捏造できない」*4というものであるそうだ。青山本が正しいとすればフライトレコーダーの「結果」は捏造可能だし、逆に「結果」の捏造が不可能ならば青山本がまちがっていることは確定である。その論証は簡単なことだ、どのような研究者に対しても、フライトレコーダー現物の調査が無条件に許可されればよい。わたしはそれは行われるべきだと確信するし、それで自分がまちがっていればその事実を受け入れよう。

*1:そのあとで、センターウィングタンクの燃料の「取材」の話が出てくるが、これが真実なら最初からこれを書いておけばよいのである。それも、ホエター氏の「絶対の自信がある」などという情緒的な情報を付け加えずに。そもそも本書には情緒的な情報やいかにも見てきたように再構成された記述が多すぎる。

*2:青山本を参照すればわかるが、日航機と一緒に飛んでいる二機のファントムを見たのはひとりではない。また、日航機墜落現場に翌朝入ろうとした人たちが、その前に現場に入っていたとしか思えない自衛隊員たちが下山してくるのを見たのもひとりではない。また、日航機行方不明の NHK の特番(じつはわたしもこれを見ていた)の放送時に墜落現場を知っていた地元の人たちが、どれだけ NHK に連絡しても放送されなかった、その体験をした人もひとりではない。また、最初に墜落現場に入ろうとした米軍のヘリが着地寸前に引き返したのも、生存者、米軍パイロット含め複数証言ある。著者はこれらすべてを、ここでは下らぬ言い訳をしながら、取材すらせずに無視している。

*3:著者はいう。「私の考えとは違う。米国と日本で積み重ねてきた取材を基に違うと考えるのだが、それは私の考えであり、青山には別の考えがある。/人間は同じものを見ていても、どの角度からながめるかによって受け止め方に違いが出ることもある。」(p.183)一見謙虚そうだが、これは無用の言である。この場合、真実はひとつしかない。著者が正しければ、青山氏はまちがっているのだ。

*4:なお、ボイスレコーダーの記録の捏造(あるいは改竄)はわたしはかなり確からしいと考える。ファントムが日航機を追尾していたことは著者も認めざるを得なくなっているが、公表された日航機のボイスレコーダーの交信記録には、当然記録されているべき日航機とファントムとの間の会話の記録が含まれていない。当然ながら、ボイスレコーダー現物へのあらゆる研究者のアクセスが許可されるべきである。