山内志朗『新版 天使の記号学』 / 小林信彦『花と爆弾』

深夜起床。

山内志朗の『天使の記号学』を読む。中世キリスト教神学の本かと思ったら、ちがっていた。いや、ちがっているわけではないけれど、「エヴァンゲリオン」すら出てくる現代哲学の本であるというべきだろう。わたしのような中二病者には、得難いおもしろい本である。また、最近の本としてはめずらしく「深さ」を志向していて、「深さ」が嫌われる現代にあっては、いまの学者としてリスキーな仕事であるともいえよう。その性格上、わたしのような学識に乏しい者には難解であるが、これはわたしには好ましい。ま、いまではたぶん売れない類の本ですね。引き続き読む。

山内志朗『新版 天使の記号学』読了。副題「小さな中世哲学入門」。文庫あとがきを読むと、へえ、本書元版は売れたのですね。結局、僕には本書は何もわからなかったようである。まったくわたしは大したことがない。

NML で音楽を聴く。■ハイドンのピアノ・ソナタ第六十番 Hob.XVI:50 で、ピアノは山口友由実(NML)。

謝肉祭 ~音列の風景たち~ ハイドン、ドビュッシー、シューマン

謝肉祭 ~音列の風景たち~ ハイドン、ドビュッシー、シューマン

■山口友由実の「ハイドンの名による断章」、ヴァンサン・ダンディの「ハイドンの名によるメヌエット」 op.65、ラヴェルの「ハイドンの名によるメヌエット」、ドビュッシーの「ハイドンを讃えて」、「喜びの島」、「月の光」で、ピアノは山口友由実(NML)。せっかく意欲的な選曲をしているのだから、「月の光」とか「トロイメライ」とか、入れる必要があるのかな。どうせなら「ベルガマスク組曲」全曲を入れでもしたらよかったのに。まあ大したことではないが。

■ペンデレツキの弦楽四重奏曲第三番「書かれなかった日記のページ」で、演奏はアトマ四重奏団(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十番 op.109 で、ピアノはフィリップ・アントルモンNML)。

Beethoven: Piano Sonatas Nos. 14, 20, 23 & 30

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昼からミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー378円。小林信彦さんを読む。

図書館から借りてきた、小林信彦『花と爆弾』読了。2003年のクロニクルなので、時代は小泉政権下の平成である。小林さんは自分の手の届くところから時代を浮き彫りにしているが、こういうものを読むとその頃自分は何をし、何を考えていたのだろうとつい思う。僕は自分が平成の人間であるとは実感できず、思い出すのは多くは昭和のことであるが*1、じつは生きた時間は昭和より平成の方がだいぶ長い。というか、自分の「男盛り」の時期はまさしく平成に当たるはずだが、結局自分には「男盛り」の時期というものはなく、ただ荏苒とぼんやりした日々を送っただけである。仕事もしたが、そして確かに楽しく仕事をした日々もあったのだが、最後の方はひどいもので、修行とでも思わねばまったくやっていられなかった。そして、仕事であとに残ったものは、自分の実感としてはゼロである。実際にどうであったのかはわからないが、実感としてはまるでむなしい。ただ、あれで日本の将来のパースペクティブを得たところはある。僕は、そこで自分の得た結論がまちがっていることを強く望んでいる。
 下らぬ自分のことばかり書いてしまったが、小林信彦さんを読んで、平成というものがどういう時代だったのか、自分なりに認識してみたくなったのである。とにかくわたしは平成の三十年をぼーっとすごしてしまったので、ちょっと調べてみたくなっている。いったい、わたしは何を考えて平成を生きてきたのか。ぼーっと生きてんじゃねえよとホント誰かに叱られそうなものだ。

花と爆弾 人生は五十一から

花と爆弾 人生は五十一から

いまの感慨を書いておくと、わたしが学生時代に抱いていた日本の将来像(つまり日本の没落)は一応予想どおりであったが、ここまで日本人が変ってしまったというのはまるで予想外であった。わたしの世代はその蝶番(ちょうつがい)にあたっており、まるでエアポケットのように人材が出ていない世代でもある。企業人でいうと、大学時代はちっとも勉強せずバブルで大量に就職し、会社でバカみたいに同期が多く、かつ無能で、会社の邪魔になっている世代である(要出典)。ちなみにいわゆる「就職氷河期世代」というのは我々の直後で、いまだにひどい目にあっている人たちだ。そして、インターネット。インターネットはわたしの学生時代に大学内で有志により LAN が構築され、インターネットに接続するようになり始めていた。その頃、少しづつ「ネットサーフィン」(もはや死語)が可能になり始めたが、まだ Google 検索はなかったのである。Yahoo! などのポータルサイトのカテゴリー表からインターネットの海に漕ぎ出していた。さても、インターネットが人間を根底から変えてしまうということは、残念ながらわたしは当時予想していなかった。世界が変わるとは思っていたが。

もっとも、この「人間の変化」あるいは「人間の終焉」は、インターネットにその原因があるのかは、確かに考えるべきことであろう。インターネットはあるいはそれを加速しただけなのかも知れない。ならば、その原因は正確には何なのか。

*1:それは正確ではないか。わたしにも青春時代というものがあって、それは京都で学生生活を送ったときであったが、それは既に平成であった。