こともなし

休日(退位の日)。雨。
寝坊。

午前中はごろごろしていた。

toyokeizai.net読んだ。東浩紀さんの「動物化」の概念が導入になっているが、その「動物化」についてどうでもよいことを少しだけ書いておきたい。さて、梶谷先生の論説では「動物化」というのはどちらかというと否定的なニュアンスをもって使われているように見える。

つまり、他者との関係性を欠いたまま、資本主義的なシステムが手を変え品を変え提供してくる「商品」を刹那的に消費することで欲求を満足させる人々が増えていき、そのようなシステムの運用や改善は一握りのエリートに委ねられる。これが、人々が「動物化」した社会のイメージでしょう。

そして

彼(東浩紀:引用者注)が15年ほど前に雑誌に連載した『情報自由論』では、人々が大資本や国家などの、ひたすら快適な生活空間を提供してくれる「環境管理型権力」によって飼いならされ、すなわち「動物化」された結果、自立した意思決定を行い、公共性を担うはずの「市民」はもはやどこにも実在しないのではないか、という問題提起を行っています。

というのも、まずは妥当な要約かと思われる。ところで、東さんにおいては、「動物化」は必ずしも否定的なニュアンスをもっているだけではないように思える。それよりも、もはや「動物化」は止められないものだから、それを敢て肯定し、その上で我々の生をそこに構築していく必要があるという感じではないか。それは、『情報自由論』以降の東さんの活動を見てもわかると思う。実際、東さん自身が「動物化」に対し強く惹かれるところがあるのは明白ではないか。
 また、梶谷先生の論説ではエリートが「動物化」と対立するように読めなくもないが、実際は微妙なところである。例えばクソバブル世代であるわたくしの世代などは、我々の「エリート」たちは「動物化」の第一世代であった感も否めない。現在において「動物化」がエリートと対立するとすれば、それは現在においてエリートは膨大な量の情報の処理と確かな判断のために多くの時間が必要で、つまりはお勉強に忙しすぎて「動物化」に対応していられないという側面があるのではないか。そして、そこにおいて現代流の「エリートと大衆の乖離」が、はしなくも見られるということになっている気がする。

しかし、いまのエリートたちは、何でああもツイッターとか、SNS には時間を使うのだろうね。あれもエリートに不可欠な作業になっているのかな。

それにしても、梶谷先生の論説の下部にあるコメントどものレヴェルのどうしようもなく低いのは何なんだ。バカか、こいつらは。こういう、「動物化」に批判的っぽくてしかしエリートでもないクズどもが現在のおそろしいところだよな。「クズ」ってあんまり使いたくない言葉だけれど、ここでは使わざるを得ないのが残念である。まあ自分もクズなのだけれど、もう少しちがうクズである。

例えば「公共性」という言葉を学者はふつうに使うけれども、もちろん一種のフィクションなので、そこにどうやって「魂を込める」のかが社会学者などの力の見せどころである。でも、僕はこの「公共性」とか、いまの日本社会で全然生きた言葉になっていないと思います。まだまだ抽象的すぎて、肉付けが充分なされていない。いったい、「公共性を担う」という仕事を、誰がどうやっているのかは、いまひとつ不分明なのである。「市民」というのも同じ。それは「動物化」が悪いのか? それとも学校でしっかり教えてないからとか? そうなのかなあ。なんつーかさあ、含蓄がむずかしすぎるんだよ、それらは。ふつうの人は例えばハーバーマスとか読めませんよ、実際のところ。

NML で音楽を聴く。■カール・フリードリヒ・アーベル(1723-1787)のフルート・ソナタ ト長調 op.6-6、ヴィオラ・ダ・ガンバのための27の小品(抜粋)、トリオ ヘ長調で、ヴィオラ・ダ・ガンバはライナー・ツィパーリング、ラ・ストラジョーネ(NMLCD)。■武満徹の「そして、それが風であることを知った」で、演奏は Tre Voci (NML)。

Takemitsu/Debussy/Gubaidulina

Takemitsu/Debussy/Gubaidulina

■エルンスト・クシェネク(1900-1991)の「交響的悲歌」 op.105、シェーンベルクの「映画の一場面への伴奏音楽」 op.34 で、指揮はアトヴァルス・ラクティーガラ、リエパーヤ交響楽団NMLCD)。■田中カレン(1961-)の「テクノ・エチュード」、ミシェル・ファン・デル・アー(1970-)の「ジャスト・ビフォー」、トゥーク・ニューマン(1966-)の「ビロード」で、ピアノは向井山朋子NML)。
AMSTERDAM X TOKYO

AMSTERDAM X TOKYO

■ベルクのピアノ・ソナタ op.1、ウェーベルンピアノ曲、ピアノのための変奏曲 op.27、ブラームスの四つのピアノ曲 op.119 で、ピアノはピーナ・ナポリターノ(NMLCD)。ベルクのピアノ・ソナタシェーンベルクよりも先に無調に入ったことで有名であるが、自分のように音楽のわからない者には、ほとんど後期ロマン派の曲にしか聴こえない。ひどくロマンティックなのである。それに比べるとウェーベルンは音が非常に少なくて、いまでもラディカルに聴こえる。もっとも、op.27 のような十二音技法の曲よりも、それ以前の無調の曲が個人的には好きなのだが。最後のブラームスを聴いていると、ブラームスから新ウィーン楽派は遠くないことがわかるし、それをはっきりさせるのがピアニストの意図でもあるのだろう。