篠田一士『幸田露伴のために』

曇。
山之口貘さんではないが、生きているとどこかかゆいですな。

NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第三番 BWV1048 で、指揮はフィリップ・レッジャー、イギリス室内管弦楽団NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十八番 op.101 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。誰も何にもいわない園田高弘に、どうして自分はこんなに感動するのかな。わたしのどこがおかしいのか、誰か教えて欲しいくらいである。わたしは園田の音が好きなのだな。硬質ではあるが、ほんのりとした明るさがあって、少しかなしいような感じもする。射程も大変に広大だ。解釈はいつも正攻法で、クソマジメなくらいであるが、それが園田らしい。

図書館。スーパー。

あまり暗いことを書きたくないのだけれど、それにまた主語が大きいが、人間というのはいがみ合い、殺し合うのが好きなのだな。そうとしか思えない。そのために、「テロ」というのはあまりにも有効なのだ。楽しすぎる「テロ」。そのために死ぬことがまた楽しい。

どうして自分だけのちっぽけな世界に閉じこもっていられないのか、ともつい思う。自分を変えるだけで、我々は精一杯の筈ではないか。視野が広いことはよいことのようにいわれるけれど、それに対する知識が伴っていないとどうなるか。自分の偏見を広い世界に適用するだけのことである。まさに自戒すべし。

むずかしい時代になってしまったな。

図書館から借りてきた、篠田一士幸田露伴のために』読了。篠田さんに露伴についての本があるのかとおもしろく思って借りてきたものである。僕は露伴は自慢するほどではないが、愛読した時期があった。なけなしのお金をはたいて、『露伴随筆』全五巻を古書で買ったのは、学生のときのなつかしい思い出である。その『露伴随筆』の解説が篠田さんだったとはね。それらは本書に収録されている。『露伴随筆』を好んで読んだのは、三十代のことだと思うが。それから、露伴は結構岩波文庫に入っている筈で、それらも愛読した。篠田さんが激賞する『運命』は、未熟なわたしには無理があったが。僕の思うところでは露伴は日本文学史の中でも特筆すべき地位にあるのだが、篠田さんの仰るとおり露伴は読まれないし、たぶんいまの人には読めない。わたしにもたぶん無理があると思う。篠田さんは「小説家・露伴」をことさらに持ち上げてそれで「私小説」を撃っているが、自分は「小説家・露伴」は露伴のほんの一部であるように読んできた。というか、露伴を「文章家」として読んできたのである。それが正しいかは知らない。ちなみに「文章を読む」というのは、形を愛でるものであり、意味理解は二の次の読み方である。現在ではまったく無意味なそれであろうが、わたしはなかなかこのような読み方から脱することが、いまでもむずかしい。それはもう、諦めている。さて、篠田一士については極小しか書かなかったが、おもしろい本であった。これもまた、いまでは無意味な本であろうが、本というのはひとりでも読者がいれば、途端に解凍され生き返るものである。篠田さんを教えて下すった方には感謝の念を抱いております。

幸田露伴のために (1984年)

幸田露伴のために (1984年)