小林信彦『昭和のまぼろし』

晴。
よく寝た。寝過ぎなくらい。

NML で音楽を聴く。■バッハのバッハのトリオ・ソナタ第四番 BWV528 で、オルガンはベンヤミン・リゲッティ(NMLCD)。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十七番 K.458 で、演奏はアルバン・ベルク四重奏団NMLCD)。これまで何度も聴いている演奏だが、すばらしいな。アルバン・ベルクQ はこんな遠くまでいっているのだな。まるで四人でひとつの楽器のようで、しかも明確に目標点がある。よほどアンサンブルを練ったわけだ。アルバン・ベルクQ がすばらしいのは当り前のことになっているかも知れないが、あらためて感動させられることだ。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第四番 op.7 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。

このところ新たに堕落しているのだが、まあ堕落はよいので望むところなわけだけれども、それだけだとダメなのだよなあ。何かに接続しないと。堕落だけだとつまらない。


昼からミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー378円。図書館から借りてきた、小林信彦『昭和のまぼろし』読了。いつものクロニクル・エッセイ。この人、若くてよい女優さんがナチュラルに好きな感じがよいな。もちろんかわいいとかきれいな女性が好きなのは男は皆んなそうなのだが、なかなかナチュラルにそうするのはむずかしいのだよね。この人の文章が最近に至るまでみずみずしいのは、そういうところがあるからだと思う。もちろん、当り前だが、女性でも若いのばかりがいいというわけでもないのだけれど、フェロモンに感じなくなったらダメだと思う。

昭和のまぼろし―本音を申せば

昭和のまぼろし―本音を申せば

小林さんのエッセイ集を読み終えてしまったので、もう一冊もっていった中川右介氏の『巨匠たちのラストコンサート』という新書本を読む。この中川氏という人はよくは知らないのだが、一年ほど前に『ロマン派の音楽家たち』というこれも新書本を読んで、なかなかおもしろかった記憶がある(参照)。職業的な「音楽評論家」なのかは知らないが、本書を読み始めてみるとこれもなかなかよい。というか、言っていることに共感するというよりは、この人の音楽の語りには「ウソ」がない感じで気持ちがよい。日本で音楽について書くに、カラヤンに影響を受けたとか、バーンスタインの実演が神品で録音を聴いてみたらどれもつまらなかったとか、これはなかなか書けないのだよね。とにかく、カラヤンは最低、バーンスタインは神と言わないとわかってないとされる国なので。自分の耳で音楽を聴いていない人か、全然お話にもならないエラソーな人か、さてもそんなのが我々の水準だ。ネットでもクラシック音楽について書かれた日本語のホームページやブログはかなりあるのだが、まず読む必要はないと思う、たぶん(別に読んでもいいけれど)。まあ、自分がわかっているとかはとてもいえないけれどね。僕も大したことはない。

そういや小林さんは、小泉政権の本質が日本をアメリカに切り売りすることだというのが、同時代的にはっきりわかっておられるのだよなあ。それは紛れもないので、やはりわかっている人にはわかるのだなあ。正直に言うが、自分は同時代的にはそんなことは気づかなかったし、はっきりとわかったのは最近のことである。どうしようもなく、愚物は愚物、ホンモノはホンモノなのだ。

■バーバー(1910-1981)のピアノ・ソナタ op.26 で、ピアノはジョン・ブラウニング(NML)。いきなりバカにして聴き止めないでよかった。ただキラキラきれいなだけの曲ではなかった。なるほど、こんなやり方があったか。なお、ブラウニングというピアニストは既に亡くなっているようで、アメリカのそれなりに知られたピアニストだったらしい。Wikipedia に項目がある。どうでもいいが、ジョン・ブラウニングというのは有名な銃器製作者の名前でもあるらしく、そちらは「ブローニング」として知られているのがふつうだ。男の子なら知っていますね(笑)。男の子は兵器が好きだ。自分などはブラウニングというとまずイギリスの詩人が思い浮かぶのだが、これはロバート・ブラウニングですね。上田敏の「すべて世は事も無し」の名文句がこのブラウニングである。って、上田敏ってわかりますかね。

Barber: Sonata for Piano/Cumming: 24 Preludes

Barber: Sonata for Piano/Cumming: 24 Preludes

■リチャード・カミング(1928-)の二十四の前奏曲で、ピアノはジョン・ブラウニング(NML)。これも聴き止めないでよかったな。「二十四の前奏曲」というともちろんショパンなわけだが(スクリャービンにもあるし、探せばまだありそうだ)、この曲は多少でもショパンを意識しているのだろうか。少なくとも、いま存命の作曲家としては非常に保守的な作品だ。この作曲家を検索してみても日本語ではほぼ何も出てこない。でも、この曲はまあまあおもしろかった。■ヒンデミットの「白鳥を焼く男」で、ヴィオラはジェラルディン・ウォルサー、指揮はヘルベルト・ブロムシュテットサンフランシスコ交響楽団NMLCD)。ギョッとする題名であるが、Der Schwanendreher というのはそういう訳にはならないのでヘンだなあという感じだった。drehen というのは「回す」「回転させる」というのがふつうの意味なので、「焼く」というのは意訳なのだと Wikipedia を見たらわかった。実質的にヴィオラ協奏曲である。以前にも聴いたことはある筈だが、こんな傑作だとは知らなかった。ヒンデミットというと「新古典派」ですっきりしているというのが紋切り型だが、なかなかそんなものではない。30分足らずの曲だけれども、聴いていてしんどかったです。中身がぎゅうぎゅうに詰まった曲なのでした。演奏もよいです。


精神現象学』の自分勝手な読解の続き。第三章を読み始めた。全然わからないことはないと思うのだが、ここでいわれる「力」とか「誘発」というのがわかりづらい。ただ、共に内部と外部の境界領域上にあらわれる何かであることはまちがいないのだが、ヘーゲルはそれらは「存在するものではない」とはっきり述べている(p.245)。では現実に対応するものはない、つまりは説明上の「仮象」なのかと思うと、いきなり「万有引力」とか(ヘーゲルはこの語を使っていないが)「電磁気力」と関連づけられてわけがわからない。そもそもヘーゲルの物理学理解は何だかよくわからなくて、非常に曖昧で不正確なことが述べてあるので、たぶんいい加減な理解なのだと思う。例えば運動に関しても「距離」と「速度」は出てきて対比されているが、そもそもそれらは物理学(というか運動学)では対立概念ではないし、さらに力学との関係でより重要な「加速度」の語が見えない。ヘーゲルは加速度とかよくわからなかったのではないかという気がしてならない。このあたりは、ヘーゲルの記述をあんまりマジメに受け取れないのである。

「距離」「速度」「加速度」だが、距離の単位時間あたりの変化量が速度であり、速度の単位時間あたりの変化量が加速度である。あるいは、距離の時間微分が速度であり、速度の時間微分が加速度であるといっても同じことだ。これからわかるように、この三者は対立概念ではない。また、ニュートン力学運動方程式とはすなわち「物体に加えられた力」と「物体の加速度」には比例関係があるというもので、その意味で加速度が重要なのである。ちなみに蛇足だが、その比例定数が「質量」というわけである。