柄谷行人『世界史の実験』

深夜起床。統合してまた寝る。

九時頃目覚める。十二時間くらい寝たのではないか。
統合したあとまたごろごろ。

昼からもごろごろ。だいぶすっきりした。

晴。
イオンモール各務原。まずは未来屋書店に寄る。飯山陽さんの新書を買おうと思っていたのだがなかった。柄谷行人の新書新刊を購入。
ミスタードーナツ。もっちりフルーツスティック プレーン+ブレンドコーヒー410円。ジョン・チーヴァーの短篇集を読む。おもしろいことはおもしろいが、描かれている「人生」たちがどうも陰惨で、いまひとつ愉快でない。もう人生とかはいいのである。しかし、おもしろいとかクラいとか、我ながら小学生の読書感想文の方がまだマシだな。


柄谷行人『世界史の実験』読了。柄谷行人氏はわたしの若い頃は世界的思想家として名声の絶頂にあり、わたしなんぞもかぶれて柄谷行人をわかったふりをしたものである。著書もほぼすべて読んだろう。それを思うと、いまや若い人たちからほとんど完全に黙殺されている氏を見るにつけ、じじくさい感慨に耽らざるを得ない。本書を見て、まずオビの著者近影がさみしかった。どうにもみすぼらしく、柄谷さんはあまりうまく老けられなかったなと余計な感想をもった。まるで河童みたいなのだ。第一部を読んでみて、おもしろくないことはなかったが、かなり弱いなという感じも受けてさらにさみしかった。で、夕飯を食って第二部を読んでみたら、である。これはどうもいかがわしさ満載で、パワフルであり、ちょっと柄谷行人健在かなと思ったり。もちろんわたしごときの感想など無意味なのだが、自分にとってはこのいかがわしい断定の連続が柄谷行人なのである。くれぐれもそれが真の柄谷行人と思わないで頂きたいが、わたしはかなり愉快だ。脱線するが、思えばわたしのようなスノッブ(いまでいえば「中二病」者)がよくわかりもせずむずかしい本をせっせと買っていたからこそ、まだわたしの学生の頃は出版界も元気だったわけで、そういう「文化の発酵素」としてのスノッブが激減してしまったのは果たしてよいことだったのか? そういうスノッブがいなくなって、「健全」にはなった文化が「進んだ」ともあまり思えないのだが(というのには異論のある方も多くいられよう。ソーカルなどを重視される方々ですね)。とは脱線ですけれども、本書にはとにかくいろいろ思うところがありました。わたしはもはや柄谷行人かぶれではなくなったけれども、本書は悪くなかったです。そして、自分はいまだに忠実に文化的スノッブ(冗語?)として振舞っているなとも思いました。

それにしても、柳田國男は読もう読もうと思って、あまり読まずにこの齢まできてしまったな。思えばちくま文庫で柳田全集が出たのがちょうどわたしの学生のときだったから、そこで揃えておけばよかったのだが。いまさら、いかに文庫版とはいえ三十数冊も買うわけにはいかない(それに、「日本の古本屋」サイトで調べても、思ったほど安くない。さすがに柳田)。まあ、県図書館にあることはわかっているので、借りればよいのだが。そのうち読もう。

スノッブなのですけれども、いま学者になろうという若い人がかなり減っていますが、それは様々な要因があると思いますけれども、かくのごときスノッブが激減したせいではないかとも思います。たぶん、そういう軽薄なスノッブどもを見て、ケッって思った優秀な人がよい学者になったのではないかしらん。でもこれは、我々の世代に既によい学者が減っていることで、反駁されてしまいそうですね。