『青柳いづみこの MERDE! 日記』 / 『野呂邦暢 兵士の報酬』

雨。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第三番 BWV1005、同パルティータ第三番 BWV1006 で、ヴァイオリンはジョン・ホロウェイ(NMLCD)。最初思っていたよりずっといいアルバムだった。聴き返せるといいな。■フォーレのレクイエム op.48 で、指揮はチョン・ミョンフン、ローマ聖チェチーリア音楽院合唱団、ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団NML)。僕はこの曲に特に思い入れがないのでよく知らないのだが、この曲にしてはえらくダイナミクスの幅の大きな演奏なのではないか。ふつう、もっと静かに演奏される曲という印象があるのだが。

IN PARADISUM

IN PARADISUM

 
大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップにて昼食。いわしと香味野菜のペペロンチーノとブレンドコーヒーを注文したら、108円以下のドーナツを加えるとセットで安くなりますよというので、ハニーディップを選ぶ。パスタは量は多少少なめ(ミスドだから女性向けかな)だが、なかなか悪くなかった。セットで900円というのはどうなのかな。自分はよいと思うが、昼休みのお姉さんたちには高め? それからここのミスドは一般店舗なので、古くさい洋楽が流れていたりするのがおじさん向けである。確かに、若い人はあまりいない。
 コーヒーを飲みつつ、青柳いづみこさんの日記本の続き。二段組で400ページ以上あるので、なかなか読み終わらない。こういうところで読むにはぴったりの本。しかし「ホンモノが好き」(p.333)というのには大袈裟にいうと背筋が寒くなるような思いがする。「でも私は腹が立つんです。偽物がまかり通っていたりホンモノが排斥されたりするのを見ると。」(p.334)とかを読むと、もうゴメンナサイという感じで恐ろしい。もちろんわたしはニセモノなので。こういうことを言えるのは、青柳さんが自分がホンモノだということをよく知っておられるからで、まあわたしなどは「まかり通って」などいないだけ許してもらえないだろうかという感じ。こんなブログは誰も読んでいないだけ救いである(でも、本当に誰も読んでくれなかったらやっぱりさみしいだろうな)。思うのであるが、ホンモノ・ニセモノというのは、努力でどうにかなるようなものではない。しかし、一国の文化の厚みというのは、どちらかといえばホンモノはあまり関係がなく、むしろニセモノの有様にこそかかってくるものではないか。かつての日本というのは、ニセモノの有り方がすばらしかったし、それゆえ世界でも稀な「文化の厚み」(恥ずかしい言葉であるが)のあった国だった気がする。いまは、ホンモノはいるけれど、優れたニセモノが極端に少ないようになった。そんな気がするのだが。
 しかし、吉田秀和さんに、「あなた何をそう急いでるの」といわれた話はすごかった。吉田さんは、まわりに自分並の人間は見当たらないから、書いたものでも悠然として誰かまとめてくれるだろうというのを待っていたというのだ。まったく、神々の話は恐ろしすぎる。


図書館から借りてきた、『青柳いづみこの MERDE! 日記』読了。ああ、おもしろかった。感想はこれまで何度も書いてきたので省略。ウェブサイトの日記の抜粋らしいが、いまも続いているのだろうか。そういうことを調べるのは極端にものぐさなわたしである。ところで自分は家で本を読むときは、ブログ「本はねころんで」の題名ではないけれど、ふとんにもぐって読むのである。昔からそうで、むずかしい数学書とかもそれであり、じつはふとんの中が真剣勝負の場(?)だったりするのだ。で、いまはそうして読み終えたのだが、本書は多くは外でコーヒーでも飲みながら読んだもので、それとはおのずから読み方が異なる。外で読むときはわりと大雑把につかんで読んでいて、無意識に細かいところは読み飛ばしたりもしているのだが、そちらの方が却って全体をよく掴んでいる場合もあって、どちらがよいかはわからない。まあしかし、青柳さんのものなどを読んでいると、わたしなどが「音楽がわかる」とかは絶対にいえないなと思う。レヴェルがちがいすぎるのだ。でも、そんなことはそれほど気にしているわけでもなくて、自分は音楽を聴くのは好きなのだ。見栄で知ったかぶりをすることもあるが、青柳さんを読むとそういうのが恥ずかしいので、なるたけ止めようと思う。ま、しかし見栄坊はなかなか治らない。

青柳いづみこのMERDE! 日記

青柳いづみこのMERDE! 日記

とにかく音楽の本を読むのは楽しい。吉田秀和さんは残念ながら亡くなられたが、いまでもなかなかよい人たちがいるよ、ほんと。


図書館から借りてきた、『野呂邦暢 兵士の報酬』読了。みすず書房から出ている、「随筆コレクション1」というやつである。500ページ近くあってずしりと重い。読み終えてみていろいろな思いがあるが、いまひとつはっきりいえないので書くことはできない。自分の読み方というのは声の発出点を探るというものであり、野呂の声の出処はだいたい見当がついたけれども、いまだそれを解体しきれないところがある。野呂の魅力はひとえにその文体にあり、その体臭にあるといってもよいが、それを解体しきれていないということだ。よかれ悪しかれ、これが自分の読み方である。そして、それが解体されたあと、後に何も残らないとも思えないという予感がある。何か豊饒な鉱脈への、鍵が残るのではあるまいか。そんな風に思っている。なお、巻末の池内紀さんによる解説は冒頭を読んだのみであとは読まなかった。