晴。
NML で音楽を聴く。■シューベルトのアルペジオーネ・ソナタ D821 で、チェロはヨーナタン・スヴェンセン、ピアノはフィリップ・シュトラウフ(NML)。この曲のこんなによい演奏はめったにないので、聴き終えて幸せである。アルペジオーネという、ほとんど使われることのない楽器のために作曲されたもので、チェロで演奏されるのがふつうだ。これもそう。シューベルトの室内楽の中でももっとも美しい曲であり、もっとも危険な曲といってもよいだろう。ロストロポーヴィチとブリテンの演奏で聴いてから、自分には特別なそれになった。
Schubert - Rachmaninoff / Jonathan Swensen, cello - Filip Štrauch, piano
- アーティスト: Jonathan Swensen & Filip Štrauch
- 出版社/メーカー: Danacord Records
- 発売日: 2018/10/26
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■ネッド・ローレム(1923-)の弦楽四重奏曲第四番で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団(NML、CD)。■スカルラッティのソナタ K.380、K.13 で、ピアノはユンディ・リ(NML、CD)。じつに上手いものだが、まだまだ若いねえ。スカルラッティは本当にむずかしい。きれいに弾くだけではダメなのだ。
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コメダ珈琲店那加住吉店。たまにはちがったところでと思ったが、コメダじゃあ同じようなものか。たっぷりブレンドコーヒー520円を頂いたが、ミスドの270円(あるいは194円)のよりもおいしくないのだもの。うーんという感じ。店内はほぼ空いたテーブルがないくらいの混雑ぶりだが。
平野栄久という人の『開高健 闇をはせる光茫』という本を読む。これ、知られた本なのだろうか、自分はまったく無知だが、読み始めて文体が固くて読みにくく、どうもおもしろくないと思う。しかし、読んでいるうちに逆なのだと気づいた。文体が固くて読みにくいのは著者の実力のあらわれで、じつはおもしろいのだ。文学的な判断も信用できるもので、安心して読める(?)とわかった。冒頭に開高の『ベトナム戦記』に対する吉本隆明と三島由紀夫の酷評について論じてあるが、これはなかなかおもしろい問題である。吉本も三島も文学的な器の大きさは開高とは比較にならぬもので、開高はさほどのものではないとわたしは判断するが(何様)、また自分の同情はというと、はっきり開高にあるのを感じた。自分は三島はともかく、吉本さんはいまでもしきりに読み続けているが、吉本さんは開高とは資質がまったくちがう。吉本さんの姿勢はごくふつうの生活人の延長線上にあり、その判断は常にその地点からなされるのに対し、開高は文学者として特権的地位にあり、原理的にみずからを一般人として規定できない。だから、正しさでいえばまったく吉本さんが正しいのであるとしかいいようがないのであるが、それでも自分の同情が開高にあるのは不思議なものだ。これは論理では説明のつかないことであるが、まあ正直言ってそんなことはどうでもよいのである、わたしには。
それから、例えば大江健三郎などに比べて、「開高健論」のあまりにも少ないこと。これも実感としてよくわかる。自分は若い頃開高に多大な影響を受けたが、かつてもいまも「開高健論」など書こうと思ったことがない。開高健に謎がないわけではないが、書いてみたいような謎はなく、開高はその素材のほとんどを自分の中で消化し切っていて、そのような題材しか書いていない(と言い切るとレトリックになってしまうか)。「論」にするような未熟なものを、開高はほとんど残していないように思える。だから開高についての文章というと、伝記的な事実の探索など、そういうことになるのであろう。
しかし、自分は開高は吉本隆明や三島由紀夫に比べて小さいと思うけれども、いま、あるいはこれから若い人たちに読まれるということであれば、これは逆に圧倒的に開高だと思う。自分は、ふつうの文学好き(?)に、開高は読まれ続けると予想している。いまでも生前に比べれば文庫本など入手できなくなっているが、読む人はきっと読むにちがいない。
ありゃ、思ったよりつらつら書いてしまったな。まあそんなで、ぼちぼち続きを読みます。なお、本書はアマゾンに(古書としても)登録されていないようだ。そうなのか。
付け加えておけば、開高もその著名な親友であった谷沢永一も、「思想」というものがまったく、毛ほどもわからない人たちであった。かかる欠落のすがすがしさのようなものが開高にはあるように感じられる。谷沢はまたちょっとちがうけれども。逆にいうと、「思想」というものが気になる人は開高の評価は限定付きのものにならざるを得まい。
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図書館から借りてきた、橋本治『小林秀雄の恵み』読了。とうとう読み終えたのだが、最終的に何を書いたらよいのかわからない。今日読んだのは第九章、第十章と終章であるが、橋本治の舌鋒はますます鋭い。小林秀雄の理解が足りないところを徹底的に延々と剔抉し続けている。といっても、残念ながら自分の能力が完全についていけてない。知識教養だけでなく、橋本治の理解力と精妙極まる論旨の展開が理解しきれない。で、橋本治の感動はどこかへ行ってしまったのか。それがむずかしいので、橋本治は小林秀雄への論難を一段落させると、自分の感動がやはりニセモノでなかったのもはっきりと掴んでいるのである。なので、本書を書く理由(というか編集者にハメられた顛末)とか、どうでもよさそうなことにかまけ出してまたその理由とやらを探索に乗り出すのだが、もはやわたしは何をいってよいのかわからない。ごめんなさい、わたしの頭にはムリですという感じ。しかし、小林秀雄が言いたいのは結局、読む(見るでも聴くでもよいが)に値するものを読めってことだ、それ以外にはないとか言われると、まあ確かにそれはこちらも納得できるのだが、そりゃわかりやすすぎるので、そんなことなら本書一冊書くまでもない。小林秀雄とはトンネルを掘ってさっさと先へ行ってしまった人物だとかいうのも同じようなことで、橋本治ほど明敏な人でも、結局本書を書いたことにはそんな理由しかつけられなかった。そこらへんが、何とも「小林秀雄的」な感じもする。
さても、大変な読書であった。終章は橋本治らしくもなく(いろいろ言い訳しているが)、第十章を書き上げてから松阪の本居宣長の墓を訪ね、海の見える墓地であったことでおしまいにしている。そして最後の二行は、明らかに『本居宣長』の最後を意識して、橋本治には異例な終わり方だ。つまりは、この『小林秀雄の恵み』はまた、ひとつの『本居宣長』でもあったことが(苦し紛れかも知れぬが)暗示され、わたしを深く首肯させるものがある。わたしは、それを感じ続けながらずっと本書を読んでいたといってよいのだと思う。
- 作者: 橋本治
- 出版社/メーカー: 新潮社
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それにしても、橋本治や小林秀雄の難解さは、例えばカントの難解さとはちがう(いや、本当はよく似ているところもあるのかも知れないが、ひとまずそれは措く)。例えば東大に入っても直ちにカントがスラスラわかるというわけにはなかなかいかないが、カントの難解さは「哲学教師」による一応の「正解」があり、それはまた「教科書」にも書いてある。ガンバッテお勉強すればわからないことはない。しかし橋本治や小林秀雄の難解さは、他人の理解は参考程度にしかならない。いや、いまや九割以上の日本の知識人が「小林秀雄の難解さに意味はない、そこには内容というものがなく、本来は空疎なものをはったりでごまかしているだけだ」という「解」に到達していると思われる。まあそれが正しいのか自分にはよくわからないので、だからわたしのような者は現在「中二病」患者とカテゴライズされるのであり、それは抗弁しても無駄なことである。別にわたしがつまらぬものにかまけて空疎な一生を送ろうが、放っておいて頂きたいものだと願っている。とか、オレ誰に言ってんの?
ところで、わたしはカントは好きなのである。お前なんかにわかるかといわれてもよいのだ。確かにそのとおり、よくわかっていないのだから。一方、現在の分析哲学なんかは、自分には全然おもしろくない。秀才の遊びというのならわかるが、とても本気でやっているとは思えないのだ。いやでも、本気でやっているのだよなあ、やっぱり。