こともなし


雪。今年の初雪である。5 cm ほど積もったようだ。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第二番 BWV 1003 で、ヴァイオリンはジュリアーノ・カルミニョーラNMLCD)。■モーツァルトのディヴェルティメント変ロ長調 K.254 で、ヴァイオリンはオーギュスタン・デュメイ、チェロはジャン・ワン、ピアノはマリア・ジョアン・ピリスNMLCD)。■ブリテンシンフォニア op.1 で、指揮はジェーン・グローヴァー、ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ(NMLMP3)。

今年入会した「ナクソス・ミュージック・ライブラリ」を聴いた、今年のまとめを頑張って書く。いやあ、よく聴いていたのだなあ。


吉田秀和さんのアンソロジーの続きを読む。これで半分以上読んだ。わかってきたが、本書の前半(これまで読んだところ)は主に作品論で、だからこんなに分析的な聴き方がなされているのだ。自分はたぶんアナリーゼ(楽曲分析)ができないのがコンプレックスなのであろうが、それにしても吉田さんの筆はあまりにも正確で、分析が精緻すぎてわずらわしいほどである。しかしこれは、己の力を知らしめる、鎧であったのだ。世間がいやでも吉田さんの実力を認めたあとは、おだやかな書き方になったのだと思う。本書の真ん中くらいまできて、演奏家論とかコンサート評の文章が増えると、格段に読みやすくなるし、わたしが好んで読んできたのもそういうやさしい文章であった。
 ただ思うのは、シェーンベルクにしろブーレーズにしろ、自分の聴き方は既に吉田さんとはまったくちがうことが痛感される。いや、吉田さんは結局バッハでもモーツァルトでも同じことで、自然にアナリーゼしながら聴いておられる。自分もまたモーツァルトであろうがブーレーズであろうが同様に聴くが、自分はどちらもエモーショナルに聴くのだ。いや、「エモーショナル」といって正確に伝わるか疑問だが、よい言い方が思いつかない。そう、自分はアナリーゼはできないが、それで一向にかまわないと思っているのである。ただ、吉田さんの 100分の1 も音楽が聴けていないことは確かだが。それはもう、どうしようもない。
 それにしても、演奏家評など、同時代について書かれた文章が、いまでもほとんどそのまま通用するのがすごい。小澤征爾ではないが、吉田さんは何でもわかってしまうのだ。そして、大きなところを外すことはまずない。吉田さんは真に音楽を聴くことのできた、本物の音楽評論家であったと思う。

なお、本書にこんな文章がある。「今、しかし、西洋人もいれて、世界中の人たちは、西洋の絶対性ということにかつてのような信頼をおかなくなった」(p.201)と。これは 1974年の文章であるが、吉田さんのいいたいことはよくわかるし、それはある意味では事実であろう。しかしである。いまにおいて「西洋の絶対性」はむしろ全世界のデフォルトになっている。つまり、西洋の産んだロジックによる合理主義というのは、完全に全世界を覆い尽くしつつあり、それ以外の思考法があったということは抑圧されている。もしそんなこと、つまり「それ以外の思考法があった」などということをいうと、簡単に「オカルティスト」のレッテルを貼られてしまい、それでもはや見向きもされない。わたしはロジックとエモーションは融合されるべきであると考えているが、これはまさしく現在では蒙昧主義の主張に他ならず、まともに考えることのできる人間という評価を剥奪されてしまうことになる。もはや、おしまい、ついに詰んだ。希望がどこかにあるのか、わたしにはまったくわからない。

西洋を見ているとわかるが、ロジックがきつくなると非合理主義も強くなる。ロジックは暴力でもあるから、それから逃れようという働きもまた暴力になるのだ。ゆえに、さらに管理が強まるということになる。その負のスパイラル。