吉次公介『日米安保体制史』

晴。
よく寝た。寝ることはもちろん必須の行為だけれど、危険もあるのだよなあ。勝手に進行してくれるので、後始末が要ったり。

NML で音楽を聴く。■バッハのオルガン小曲集 BWV624-628 で、オルガンは椎名雄一郎(NMLCD)。■モーツァルトの弦楽五重奏曲第一番 K.174 で、ヴィオラはハラルド・シェーネヴェーク、クレンケ四重奏団(NMLCD)。■リヒャルト・シュトラウス交響詩死と変容」 op.24 で、指揮はクリストフ・フォン・ドホナーニ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。■ドビュッシー前奏曲集第一巻で、ピアノはエリザベス・シャーマ(NML)。それなりにこの曲を聴かせるだけの力量はある。ドビュッシーだからもう少し繊細でもいいけれど。おおよそ満足。

Dans le bleu

Dans le bleu

ドビュッシーの「2つのアラベスク」、「ベルガマスク組曲」から「月の光」、新発見の練習曲、「喜びの島」で、ピアノはエリザベス・シャーマ(NML)。実直な印象。「アラベスク」は二曲とももっとチャーミングな曲だと思う。「喜びの島」は技術的な難曲で、ふつうはもっとバリバリ弾くものだけれど、敢てそこまでやっていないのかそれともそこまで弾けないのかは自分にはわからない。それから新発見の練習曲というのは、練習曲とあるけれど「12の練習曲」とは明らかに関係がないと思う。もっと若い頃の作品、もしかしたらまだドビュッシーが駆け出しの頃のかなとも思うが、まあそれも自分にはよくわからない。悪くない曲だとは思う。


ショパンのバラード第一番 op.23、第二番 op.38、第三番 op.47、第四番 op.52 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。どれもすばらしいのだが、例えばバラード第四番、これはわたしにはとてつもない射程をもった演奏のように聴こえるのだが、こんな風に聴いているのは自分だけなのかと疑う。まあ、どうして園田高弘について誰も何もいわないのかはよくわかる気もするのだが、どうして自分がここまで園田のピアノに惹かれるのかは自分でもまったくわからない。それは恐らく日本人と西洋と、それらの複雑な関係が深く絡み合っていたりもするのであろうが、何ぶんわたしの深い無意識の領域のことなので、自分にはどうしようもない。とにかく、自分はこの40分近い演奏でも園田のピアノで聴いていると極短時間のことのように思える。どれだけでも聴いていられる感じだ。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー399円。新書の『日米安保体制史』を読む。学究的な書というべきであろう。詳しい感想は書かないが、オヤと思ったことだけ。自分は以前から佐藤栄作ノーベル平和賞受賞は無意味だと思っていたのだが、意外とそうでもなかったのだなと。沖縄返還は外務省ですら無理と思っていた難事であったが、これを実現させたのは佐藤の意志と政治的手腕によるものといってどうやらよいようだ。もちろんノーベル平和賞などは下らぬ賞であるが、佐藤の受賞は実質のあるもので、例えばバラク・オバマの受賞(茶番である)よりははるかにマシであったように思える。
 もうひとつ。これも以前から思っているが、昭和天皇は食えない人物であり、戦後になっても「象徴」どころか、政府から独立した政治活動をはっきりとおこなっており、これはどういうものであろうか。この本の記述でも、キューバ危機に際してのケネディ米大統領のきわめて危険な対応(かろうじて核戦争で世界が滅びなかったのは、ソ連側の現実的な判断によるものであった)を昭和天皇が評価し、それを在日米軍司令官に伝える(p.53)など、呆れたものである。また安保体制でも、アメリカ軍の駐屯を止めさせないよう外相に指示する(p.23)等、はっきりとした政治活動をおこなっている。それでなくても対アメリカの外交はデリケートなものであり、一種の「二重権力」体制を作っていた昭和天皇は、自分は危険な存在であったと思う。それからの皇室はまただいぶ変ったが、現在の天皇皇后もはっきりとした政治活動に類することをおこなっているのは確かで、いくらリベラルで立派であるといっても好ましいとはわたしは思わない。やはり、天皇制の維持は原理的に擁護できない気がする。
 それにしても、1952年の安保条約発効から2013年までに、米軍の事件・事故で1000名以上の日本人が死んでいる(p.v)というのは、驚くべき数字ではないだろうか。これでおかしいと声をあげない日本人とは、いったい何者なのか? まあ下らぬ日本人などは放っておいても、ふつうのアメリカ人に、これがはたしてフェアな態度というべきなのか、訊いてみたい気がする。

それにしても、昭和天皇の評価はいろいろあろうが、現行憲法を全面的に尊重するという意志が昭和天皇になかったことだけは確かだ。昭和天皇今上天皇も、たんなる「象徴」などではまったくない。確実に何ものかの政治的機能である。

吉次公介『日米安保体制史』読了。特に上に書いた以上の感想は書かないが、これまでの自分の考えを変えるものではなかった。ただ、日本の政治家・官僚が「自国の国益」以上に「日米関係の良好」を重視するようになった転換点はどこなのか、少し意識してみたいとは思うようにはなった。内田樹ふうにいうと、日本の姿勢が「対米従属を通じた対米自立」からたんなる「対米従属そのもの」に変ったその転換点といってもよい。ちなみに内田樹はいまや「ツイッター論壇」(笑)では徹底的にバカにされており、それはわからないでもないが、あれは正直言ってあまり気持ちのよいものではないね。そんな内田のいうことも、この点に関しては一理あると思うようになったということだ。ま、そういうわたくしも内田と同類の○○なんでしょうが、まあいいや。勝手にやってろという感じ。素人かつ能力不足ではあるが、これからも少しずつお勉強していきたい。

日米安保体制史 (岩波新書)

日米安保体制史 (岩波新書)

なお本書は新書にもかかわらず、稀なことに簡単ながら索引が付いている。著者ないし編集者の意志が窺われる。


吉本隆明全集を読む。頭にガンガンくる。あんまりいまの時代、人物がいないので、それに慣れちゃったらダメだとつくづく思う。しかし、こんな状況は一時的なものなのだろうか。たぶん我々の世代の少し前くらいから、この不毛さは始まっているのだが、これがそのうち終わるのか、それとももっとひどいことになるのか。わたしはいまの若い人たちに何の期待もしていないが、わたしが敬意を抱いている人たちは凡そいまの若い人たちを褒めているので、たぶんわたしがまちがっているのであろう。そうであれば、どんなによいことか! しかしまあ、我々バブル世代が最悪だというところは動くまいが。ホント、どうしようもないクソ世代だ、我々は。さっさと消え去った方が世のためである。いや、お前が消え去れって? 確かに。