斎藤美奈子『日本の同時代小説』 / ジュリア・クリステヴァ『ボーヴォワール』

晴。
よく寝た。

NML で音楽を聴く。■アルヴォ・ペルトの「何年も前のことだった」で、アルトはスーザン・ビックリー、ヴァイオリンはギドン・クレーメルヴィオラはウラディーミル・メンデルスゾーンNML)。

Musica Selecta

Musica Selecta

モーツァルトの弦楽五重奏曲第二番 K.406 で、ヴィオラはハラルド・シェーネヴェーク、クレンケ四重奏団(NMLCD)。これ、もちろん名曲なのだけれど、終楽章の最後が取ってつけたみたいなのは何なのだろうね。■ラヴェルの「スペイン狂詩曲」で、指揮はセミヨン・ビシュコフ、パリ管弦楽団NMLCD)。よく知らないけれど、ビシュコフというのは最後できばる人なのかな。最後ばかりそんなにきばらんでもええにとも思うけれど。
 
シェーンベルクの管楽五重奏曲 op.26 で、指揮はデイヴィッド・アサートン、ロンドン・シンフォニエッタNMLCD)。40分を超える長い曲。なかなかシェーンベルクの限界を超えるのは大変である。■石井眞木(1936-2003)の「日本太鼓とオーケストラのための『モノプリズム』」で、指揮は田中雅彦早稲田大学交響楽団NMLCD)。これはおもしろかった。石井眞木の洗練された音響と、林英哲らのわかりやすいド迫力の和太鼓のミスマッチがおもしろい。これを日本の学生オケが、ベルリン・コンサートで演奏するという、ほとんどオリエンタリズムに堕した俗っぽさも楽しい。こういうことは、時々やるとよいのではないか。なお、演奏のクオリティは高かったです。


イオンモール各務原へ。たまにはここの未来屋書店へ寄ってもいいだろうと思い、つらつら新書棚を見て斎藤美奈子の新刊『日本の同時代小説』を見つける。ははあ、斎藤美奈子は好きではないが、この人は小説が読めることも確かだったなと思い、購入。フードコートでマフィンを食いながら読む。なかなかおもしろい。一時間ほどで一気に読了。
 1960年代から2010年代まで、10年ごとのサーベイがなされている。読んでみて、斎藤美奈子は思ったほど小説が読めていないなという感覚。まあしかし、自分などはもっと読めておるまい。仕方がないことだが、斎藤美奈子はそれほど頭がよくないし、いわゆる(昔風の意味の)「教養」もあまりない。なので、斎藤美奈子のレヴェルでしか読めていないのだが、まあしかし、それでもいいよね。それに、よく読んでいるし。自分などはとてもここまで小説を読んでいない。女性作家に点がアマいところはあるが、それも別にそれでもよい。佐々木敦というどうしようもなく小説も思想も読めないうんこな「批評家」とやらがいるが、それよりははるかにマシである。斎藤はとても自分などが読む気の起きないつまらない小説家もそれなりにきちんと読んでいる。とにかく、これだけ読んでいるだけで感心してしまった。
 それから思ったこと。2000年代までは、本書で扱われている小説はまあまあ自分も読んでいるなと思ったが、2010年代になるとまったくわからない、知らない。2010年代になって、自分が現役の小説読みでなくなってしまったことがわかる。それはもうはっきりしていて、そこはほとんどわからなかった。そして驚いたのは、本書にネットへの言及がほとんどないということ。テキトーに読んでいたせいかもしれないが、ネットの単語は一箇所も覚えていない。自分は、現代の特徴はネットが「リアル」と同様の現実になった、いや、「リアル」以上の現実になったことだと思っているが、本書にはそのような視点はまったくない。これは恐らく意図的なものであり、本書の蛮勇としてあるいは評価してもよいだろう。わたしは、本書に記された、自分の読んでいない2010年代の小説たちを読もうという気がまったく起きない。それは、既に自分が同時代に対する感性を失った老害であるからであろう。斎藤美奈子さんにはこれからも頑張って頂きたいものである。いやあ、おもしろかったなあ。

しかし、エラそうに書いたけれど、自分はホントまだまだ読んでいないですよ。古くさい小説でもっと読んでみたいものはたくさんあるので、何とか読みたいなあ。


図書館から借りてきた、ジュリア・クリステヴァボーヴォワール』読了。「叢書・ウニベルシタス」ってまだあったのね。ひさしぶりに読んだ。

ボーヴォワール (叢書・ウニベルシタス)

ボーヴォワール (叢書・ウニベルシタス)

斎藤美奈子の新書新刊がとてもおもしろかったので、夕飯を食ったあとでアルコールの入った頭であちこちひっくり返しているが、「プロの読み手として頑張ったなー」という感じがつくづくする。もちろん自分などには到底書けない。結局、いま現在プロの読み手として、小説なんぞに何を読むのかという話なのだ。斎藤美奈子はある近代批評を創始しさらにはそれを自分で終わらせた批評家を「コバヒデ」と呼んでバカにしたが、さて斎藤自身は小説に何を読むのか。つまるところ、コバヒデの呪縛から逃れ出たわけではなかったのである。それは、「本格的シリアス純文学」(それはポストモダンなども含んでしまう)みたいな小説に対する斎藤の高い評価を見れば一目瞭然だ。その「矛盾」が自分などにはとってもおもしろいし、斎藤に一種の「ホンモノ」ぶりを(イヤイヤながら)認めたくなるところでもある。もちろん斎藤なんぞは歴史的に見ればまったく大したことはないのだが、それでも斎藤はプロだ。きちんと水準以上のものを出してきているし、そこがこんなところで下らぬことを書いている自分などとちがうところでもある。ひどい言い方かも知れないが、いまや斎藤並の仕事ですら、ほとんど見かけない気がする。しかし、関川夏央とかは何をしているのですかね。いまの編集者は関川とかをどうしているの?

しかし、斎藤はまた、作家を「殺す」ことのできるような批評家では、残念ながらなかったようだ。いまは何をしているか知らないが、文芸批評を書いていた頃の福田和也はそういう批評家だったと思う。僕は、村上龍高村薫を「殺した」のは、福田和也だったと思っている。ま、僕は教条主義的パヨクで、福田和也は右翼だけれどね。

そういやさっき『ボーヴォワール』とかいう本を読んだのだけれど、世紀の大作家ジャン・ジュネを『聖ジュネ』(読んだのだけれどよく覚えていないのはナイショ)で殺したのは、かのサルトルだった。サルトルって進歩的知識人みたいな顔をして、それにどうしようもない醜男だったが、退廃文学大好きの恐ろしい批評家でもあった。若い人は知っているのかどうか、『嘔吐』っていうとてつもない影響力をもった小説の書き手でもあったしな。っていま誰がサルトルなんて読んでいるのだよなあ。

ブログ「本はねころんで」の今日のエントリは鷲田清一氏のコラムから話題を拾って、三木清林達夫渡辺一夫の三人について言及してあるものであったが、あまりにも懐かしい名前でちょっとしばし凝固してしまった。三木清については、自分には三木清が好きだという奇特な友人がいたのであるが、あんなに仲の良かった友人であったけれど、彼が住所を変えたときにわたしに連絡はなく、そのまま既に20年以上が経っている。彼が何を思ったかは知らない。まあ彼については、そのうち書くこともあるかも知れないが、いや、またその日は永遠に来ないのかも知れない。
 「本はねころんで」さんが書かれている林達夫の文章は、自分には思い当たるところがなかったので、該当する文庫本の「宗教について」を読み返してみた。林のいう「原始民族」(中公文庫版『歴史の暮方』p.75)についての林の理解など、レヴィ=ストロース以前であることからして当然であるが、完全に時代遅れのものになっていて、林達夫でもそうなのだなと思うところもあったが、それにしても知的で、じつに見事な文章である。「宗教と戦った」(同 p.74)という一節などに、いかにも時代を感じるところはあるが、そういう細部はともかく、この文章全体で林が言いたいことは何なのか、名文ははなはだ屈折している。自分の読みでは、林は太平洋戦争直前の日本の異常な雰囲気を、「呪術の復活」というタームで書き留めているように思う。(ちなみに、この文章が発表されたのは1941年4月であり、真珠湾攻撃はもちろん同12月である。)仮にそれが「正解」であるとして、そのことを同時代でこの文章から読み取れた読者はおそらく非常に少なかったであろうという気がする。それくらい、屈折した文章だ。
 それから、本文の内容とは関係がないのだが、読んでいて文章中に「貶位的」(p.77)という単語を見つけて、オヤと思った。これは恐らく林の造語ではないかと思う。少なくとも、自分のもっている(電子辞書版)「広辞苑第六版」にはないし、Google 検索でも一件もヒットしない。意味は、「よくない意味で」というような感じなのだろうが、恐らくは何かの西洋語の直訳であり、そして残念なことにわたしにはその単語が推測できない。ただ、わたしにそれがピンときたのは、その意味の日本語がなくて、わたしも困っていたからである。じつは澁澤龍彦は同じ意味であろう、「貶下的」という単語を採用していて、じつはこれまで自分はこちらを何度か使ったことがある。この語、日本語に入れてもよいと思うのだが。ちなみに「貶下」は「広辞苑」にはないが、Google 検索では多少ヒットする。わりと使われているようだ。
 話が逸れた。講談社学術文庫渡辺一夫の『僕の手帳』は手近の本棚にあったので参照してみたが、「宛名のない手紙」という題の文章はない。元の新聞記事を見ればわかろうが、階下は既に両親が就寝中なので、いまは新聞が見られない。というわけで探索は終了してしまったが、多少文庫本を適当に読んでみる。昔の大先生たちは、よい文章を書かれたものだ。わたくしなどは忸怩たるものを感じずにはいない。同じ講談社学術文庫渡辺一夫としては、『人間模索』という本も本棚にある。どこの古書店で、いつ買ったものかわからないが、『僕の手帳』ともども、明らかに古書店で購入したものだ。このような「ダサい」題名の本は、いまではまず出ないであろうが、わたしは懐かしいものを感じてしまう。時代遅れの人間の繰り言である。