晴。
母が一度書いたブログエントリを誤って消してしまい、ブラウザのキャッシュから復元できないか試みる。自分の使っている Chrome は以前はできたようだが、よくわからないけれどキャッシュが暗号化されているのか、それとも Chrome のキャッシュのシステムを理解していないせいか、ちょっと無理だった。キャッシュのデータ自体は ~/.cache/google-chrome/Default/Cache にあるようだが。(なお、Windows か Mac ならその目的のためのフリーソフトが存在するようだ。)あとは、母の Firefox で試みる。いろいろやって、ブラウザのアドレスバーに about:cache と入力していけそうだったのだが、データが膨大すぎて目当てのファイルが発見できず、まああきらめるかということに。なかなかむずかしいな。
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NML で音楽を聴く。■バッハのトリオ・ソナタ第六番 BWV530 で、オルガンは椎名雄一郎(NML、CD)。■バッハのフルート・ソナタ変ホ長調 BWV1031 で、フルートは福永吉宏、チェンバロは小林道夫(NML、CD)。
ひさしぶりにカルコス。店内が多少リニューアルされた。いつもの文庫新刊(ちくま学芸、古典新訳、河出など)の他、ちくま新書を買ったり。話題になっているものも数冊手にとってみたが、買うに至らず。最近はチャレンジ精神がなくなってきて、中身が見えてしまうどうでもいい本がなかなか買えない。老化である。
いつもの「群像」連載の中沢さんの論考立ち読み。今月のは本当にむずかしかった。しかし、老化して刺激を与えてくれる本が少なくなるなか、中沢さんを読んでいると二十代の感受性がヒリヒリしていた頃がよみがえってくるかのようだ。背伸びしてむずかしい本が読みたくなる。さても若い優秀な学者たちが一般人を見下している様子はまあわからないこともないが、バカに教えてやるという態度が透けて見える啓蒙書ばかりでなく、知能の限界を振り絞ったような本を書いて欲しいものだ。我々のようなバカにも、むずかしい本は必要なのである。
ジル・ドゥルーズ『基礎づけるとは何か』読了。國分功一郎氏が中心になってまとめられた、ドゥルーズの初期論考(あまり知られていない)の翻訳である。國分氏はわたしよりだいぶ若いが優秀な哲学研究者(あるいは哲学者)で、一時期は期待をもって見つめていた人であった。最近は何をされているのか知らないが、また刺激的な著書を期待している。本書の論考たちはあまりまとまっているとは言えず、表題作の若きドゥルーズの講義録(学生によるノート)などは、自分には能力不足で何を言っているのかとんとよくわからなかった。けれども後半のいくつかの論考などはとても読みやすく、また大胆に「女性」を語っていたりもして、ドゥルーズも若い頃はこんなものを書いていたのかと愉快だった。思えばドゥルーズはわたしの若い頃に流行っていたので、わからないなりに熱心に読んできたものである。正直言っていまでもたぶんよくわかっていないのだろうが、わたしはドゥルーズは好きだ。読み返したいのは山々なのだけれど、思い切ってしないと永遠に読み返さないような気がする。フーコーも読み直したいのだが。まあ、いまさら自分が読んでもどうなるというものではないのだが、よいではないか。ねえ。
- 作者: ジル・ドゥルーズ,國分功一郎,長門裕介,西川耕平
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2018/11/08
- メディア: 文庫
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■ショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタ op.147 で、ヴィオラはアダ・マイニッヒ、ピアノはウラディーミル・アシュケナージ(NML、CD)。■ヒンデミットのヴィオラ・ソナタ(1937)で、ヴィオラはルカ・ラニエーリ(NML、CD)。(AM00:00)