Rogue で遊んでみる

日曜日。晴。
自己肯定感がない。ネットで「オレがオレが」という喧騒を見ているとウンザリする。エラい人ばっかりだ。

NML で音楽を聴く。■バッハのフルート・ソナタ変ホ長調 BWV1031 で、フルートは福永吉宏、チェンバロ小林道夫NMLCD)。この曲とシューマンの「森の情景」がこのところ頭の中でぐるぐる回っている。

超古くさい RPG でかつ超有名である「Rogue」を Linux Mint で遊んでみました。
20180902050845
なんと端末で遊びます。めっちゃシンプルで素朴だけれど、意外と想像力を喚起しておもしろいですね。大昔の UNIX のゲームです。Wikipedia によると、誕生は1980年だそう。目的を達成するのは結構むずかしいらしくて、自分も最初いきなり地下2Fで死にました(笑)。ダンジョンがその都度自動生成されるとか、用心のためのセーブができないとか(セーブはできるのだけれど、ロードした時点でファイルが消える)、なかなか変っています。
ダウンロードは、自分はここからしました。Linux 用のバイナリが用意されているので、コンパイルなしで遊べます。すごく色んなバージョンが置いてあって迷いましたが、オリジナル最終版の Rogue 5.4 をダウンロードしてみました。Windows でも Cygwin があれば遊べるようです。
追記バージョン 5.4 は少し特殊なようなので、5.2 にすることにしました。

カルコス。何かいいプログラミング本が買いたい気分だったのだが、なかなか気に入ったものがない。いまはとにかく機械学習ディープラーニングばかりで、膨大な新刊で溢れている。で、当然 Python 本の洪水。明らかにブームを見てでっち上げた乱造本が多いが、どうもこんな田舎の本屋でもすごいものだな。自分もいわゆる AI に興味がないことはないので、やるならいまだが、皆んな tensorflow で金儲けに走っているのに素人が追従するのもつまらない。いまの日本のプログラミング本を見ていると、海外産のライブラリやフレームワークをどう使うかというものばかりで、見ていると足腰が非常に不安である。(Qiita を見ていても如実にそう思う。確かに高度なことはやっているのだが。)日本発の影響力のあるライブラリ、フレームワークなどは聞いたことがない。まあ、素人なので知らないだけかも知れませんが。
 そもそもプログラミングでは「車輪の再発明」はしない、ということになっており、自分で作るくらいのものは既に誰かが作っているということなのだが、わたしのやりたいのはその「車輪の再発明」っぽいことなのだよね。もちろん程度問題にすぎないといえばそうで、やっぱり既成品を使ってはいるのだが、できるだけ自分で納得したい。お仕事ではないから、自己満足、楽しめればいいのである。で、そういう「レヴェルの低い」ことを知るための本が少ない。本屋の棚は限られているので、AI 本の洪水になると地道なアルゴリズム本がなくなる。そういうことになっている。とにかくプログラマはお仕事でやっている人が増えて、素人の割合が相対的に減り、自分のような者にはむずかしい時代になってきた。もう、古い技術書をアマゾンのマーケットプレイスとかで購入するしかないのかも知れない。
 しかし、サーバとかメーラーをパッと自作できる人とか、そういう人に憧れるところがあるなあ、わたくしは。まあ、一生初心者プログラマだから、とてもじゃないですけれどね。
 で、購入したのは『プログラミングElixir』とフェルナンド・ペソアでした。

珈琲工房ひぐち北一色店。まず、いま買った『プログラミングElixir』に少し目を通す。よしよし、悪くない本だ。で、持参した石牟礼さんを読む。読んでいると○○ももうおしまいだなあと思うが、それに加担している自分は罪深く、そんなことを言う資格はない。国破れて山河ありというが、その山河も酸鼻をきわめた状況になっていることを石牟礼さんは淡々と糾弾する。クソのようなコンクリートによるラッピング化。中沢さんではないけれど、まず自分の脳ミソを「野生化」(「野蛮化」でもいい)しないとなと思う。罪深い自分には、それくらいしかすることがない。若い人たちによって、○○は着々と姿を変貌させつつある。いつもいうことであるが、自分は時代遅れであり、もはや新しい時代には役に立たない。

「ひぐち」でコーヒーチケットを買いました。今日がちょうどお得になる日だったので、わざわざ出かけたのである。ここのコーヒーはおいしいので、ミスド以外に来るつもりなのだ。今日はコーヒーのおかわりもしました。250円プラスでおかわりできるのです。

コンピュータ・サイエンス(計算機科学)をちょっと基礎からやりたいなと思い、最近ではネット学校などもあるので見てみたが、基礎的な授業は日本語ではほとんどない。「ドットインストール」とかさすが日本でとってもイージーかつチープ、そんな本格的なものはない。アメリカの大学など本格的なレヴェルのネット・スクールがあってさすがだが、英語はともかくかなり高価である(数十万〜百万円以上)。遊びでそこまでやるのもで、結局名著を一万円以上かけて買うことになった。おっさんの遊びだからこんなものだが、しかしマジで日本の IT産業は大丈夫かいな。日本のプログラマは基本的に独学ということで、よくもそれでここまでやっていると思うが、これでいいのかなあ。
 それから、ネットの与太話が多すぎますね。若い日本人が「プログラマになりたいな」とか思って検索したら、ああいう与太話をたくさん読まされることになるのか。同工異曲のどうでもいい話が多すぎて、どうしようもない。まあしかし、このあたりは自分のごとき素人の口出しをすることではないな。
 それにしても、素人がプログラミングで遊ぶという観点が本当にないな。僕は、これは遊びとしては悪くないものだと思っているのだが。そのあたりを是非明確化したいのだが、これがなかなかにむずかしい。まつもとさんは「全能感」だといっていたが、本人だってこれだけとは思っておられないでしょう。確かに、何か動くものができると満足感があるが、たんなる「全能感」だけとは思えないのだ。「きもちよさ」みたいなものもあるし、「美」のようなものを感じることもあるし、「レヴェルアップ」の楽しみもあるし。とにかく何らかの自己満足ではあるのだが。「ものづくり」の楽しみと少し似ているところもあると思うけれど。あと、プログラミング言語って問題もあるな。僕は個人的に Ruby と出会ったのが大きい。これは素人が遊びで使うにはもっとも適している言語のひとつだと思うが、まあこれは自分だからそう思うのかも知れない。でも、別に Ruby ばかり使っているわけではないですよ。いろんな言語を使うのもまた楽しいのだ。

プログラミングで遊びたい人は、とにかく(クソコードでもいいから)コードを書けということ。クソコードはコードを書かないのに勝ると。いや、「クソコード」ってヒドい言葉ですけれど、よく使われますから。(ただし、適性のない人はお仕事にしない方がいいかも知れない。プロが書く「クソコード」は他人の迷惑になるので。)