高橋源一郎編著『憲法が変わるかもしれない社会』

曇時々雨。
遅寝遅起き。昼食を食べたら寝て夕方。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第六番 BWV830 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。この曲に32分あまりもかけている。じっくりと慌てずに弾かれている。■テオドール・W・アドルノの「弦楽四重奏曲のための6つの練習曲」、「弦楽四重奏曲 1921」、2つの小品 op.2 で、演奏はライプツィヒ弦楽四重奏団NMLCD)。アドルノとは社会学者にして思想家、批評家だったあのアドルノである。アドルノがベルクに師事した作曲家だったのはよく知られているが、自分は初めて聴いた。アドルノの書くものはかしこい人間が自分の頭のよさに自己満足するために読むところのものだと思うが、音楽にもそういうところがあって、きわめて取り付きにくいものである。中身は、ドイツ音楽の継承者であることを徹底的に意識した、めんどうくさいものだ。アドルノがジャズを含むポピュラー音楽を完膚なきまでに酷評したことはよく知られており、なるほどその音楽を聴いても感覚的な魅力はほとんどなく、その点では彼の賞賛したシェーンベルクなど新ウィーン楽派の音楽家たちともちがう。そこいらが、アドルノが音楽家として評価されなかった原因のひとつではあるまいか。頭のよい人にはおもしろく聴けると思うので、我こそはという人は聴いてみるといいと思う。

ここで聴くかぎりアドルノの音楽は非常に重苦しく、のちのブーレーズシュトックハウゼンのような吹っ切れたところがないのも事実だ。どの曲もトーンが似通っていて、どれも同じような印象を与えられる感じがする。

夕食のとき見ていたテレビニュースでフィリピンでの遺骨収集の話題があったこともあって、Wikipedia で「レイテ島の戦い」「レイテ沖海戦」などの項目を読み耽る。事実が淡々と書いてあるだけなのだが、Wikipedia ごとき(?)でもとてもかなしい気分になった。レイテ島の戦いについては過去に『レイテ戦記』を読んだせいもあって比較的よく覚えていたが、それにしても配備された日本兵の九割以上が戦死しているのには胸を突かれた。レイテ島の戦いは武器弾薬から食料まであらゆるものが圧倒的に不足するなかでのものだったが、日本軍は圧倒的な物量で攻めてくるアメリカ軍に対して、よく戦ったことが知られている。先日自分はツイッターで、戦争を否定するあまりのこととはわかっているが、日本兵たちの死は無駄死だったとする若い人のツイートを目にした。あいかわらずかしこくて正しい意見であるが、わたしはとてもそんな風に割り切ることができない。レイテ沖海戦はまた「神風特別攻撃隊」が初めて出撃した戦いでもあったが、これも無駄死といえばそうなので、しかし自分としては複雑な思いがある。まあ、無駄死といえばわたしの生がある意味ムダであり、その死もまた無駄死でないとどうしていえようか、そんなことをいうならば。さて、では自分は戦争を美化したいのか? そんなことはあるまい。まあ、かかるツイートをした人は、己が重要人物であり、その死もまた祝福されるべきものだとみずから思っておられるのであろう。立派なものである。

それから、自分はいわゆる「艦これ」みたいなゲームも、たかがゲームごときに目くじらを立てるべきではないとわかってはいるけれど、多少の違和感を禁じ得ない。日本人は何でもかわいい女の子で擬人化してしまうというのは、すでに文化なのだとはわかっている。別にそんなものはいい筈だが、気になるこちらがおかしいのだろう。わたしはもはやそういうものに慣れない時代遅れに成り下がっただけのことであるとも考えられる。

まああんまりマジメで暗いことばかり書いてもね。自分は別にそんなにマジメな人間というわけでもなくて、ふつうの下らない人なのですが、ブログではついマジメにしてしまうだけですね。というか、ブログっつーのがえらいんだな。僕はブログというものが結構好きです。ブロガーとかいう人たちはそう好きでもない。

高橋源一郎編著『憲法が変わるかもしれない社会』読了。昨日書いたとおり、大学の公開講座で源一郎さんがゲストの人たちと語り合った記録である。ゲストの人たちの名前を挙げておこう。長谷部恭男、片山杜秀石川健治森達也国谷裕子原武史の方々。詳しいことは書かないが、予想どおり刺激的な本だった。すべてが憲法の話というわけではなく、後半はかなりちがった話も聞ける。端的にいって、すごく勉強になりましたね。学者と同じことはもちろんできないけれど、学者が一般人に伝えたいということは聞けるくらいにはしておかないとなと思った。しかし、国家というのは厄介すぎますわ。こんなむずかしいことを考えないといかんのという感じ。
 また思ったのは、源一郎さんが相手だからゲストの方々もここまで興味深いことをしゃべることができたのだなと。そういう意味では、嫌われがちな源一郎さんをフォローしている自分はエラいと思った(笑)。それから、自分が(半分イヤイヤながら)正しいと思っている経済学者、社会学者の人たちも、意外と底が浅いところもあるなと気付かされたところもある。変な話、彼らには「価値の創造」は無理だと思った。ただ正しいことを言っているだけである。もちろん、こういう考え方がある意味危険なことはわかっているが、生きているというのはどうしても「管理」だけではもたないのだ。経済学は、結局リソースの最適な配分を研究する学問というだけのことでしかない。それが大事なのはもちろんなのだが。

憲法が変わるかもしれない社会

憲法が変わるかもしれない社会

本書で繰り返し源一郎さんが言っているのは、いまは社会が分断されてしまう風潮にあるということで、それは本当にそうだと思った。それはつまり判断が分断されてしまっているということで、曖昧さが許容されず、常にイエスかノーか、あちらでなければこちらなのかで判断を迫られてくるということ。これはかなり根が深い問題で、文系の学問の徹底的な西洋化ということも理由にあると思っている。我々の古典は既に古い日本の書物でも、中国の本でもなくて、完全に西洋のそれになった。それゆえ、文系の学問が西洋一辺倒になった。もはや、和魂洋才の時代ではないのである。自分は、あと百年もすれば、日本に超越的な審級(つまりは一神教的な「神」のようなもの)が必須になるのではないかと予感している。そして、東洋は根底から消滅していくことになるだろう。わたしは、知的な意味では自分がほぼ最後の世代のような気がしている。