梯久美子『原民喜 死と愛と孤独の肖像』

晴。
とてもおもしろい夢を見た。ここまで印象的な夢はめずらしい。無意識の方が先を行っている気がする。これが指し示すとおりの方向にゆけたらよいのに。もっと見ていたかったが、外出しないといけないので起こされてしまった。

夕方、イオンモール。車の外は 40℃である。さすがに 40℃を超えたのはこの夏でも初めて。何で岐阜ごとき(?)がこんなに暑いのか。
自分の周囲の最大瞬間風速が 2 になったので、梯久美子氏の新刊『原民喜』をイオン内の書店で購入、ドーナツを食いながらフードコートで読む。どうも、ちょっと自分には辛すぎる書物。原民喜という人が繊細・透明で痛々しすぎて、こりゃ却ってこのやかましい環境で読んでいるのが救いかも知れないと思った。原民喜というと、自分は、まず開高さんのエッセイを思い出す。確か、アリューシャン列島の一島に閉じこもって釣りをしながら、原民喜全集を読んでいるというような話だった。開高さんによる感想はここには書かないが、やはり「夏の花」を画期とする論調だったと思う。それから、原民喜全集を出した出版社への言及も覚えている。自分は原民喜の小説は、ふつうに新潮文庫で読んだ。yomunel さんによれば講談社文芸文庫に戦後全小説が入っているらしいから、買ってもよいという気になっている。詩は岩波文庫の全詩集で読んだ。

梯久美子原民喜 死と愛と孤独の肖像』読了。いろいろ思いがあって口にすることはむずかしいが…。本書は最初に原民喜の自殺を置き、最後は遠藤周作と祐子嬢との三人での牧歌的な日々を描いて、さほど暗い印象を与えずに終っている。それは確かに救いだ。肯定的な自殺というのも奇妙だが、本書に結論めいたものがあるとすればそれであろう。それに関しては、どういうものか自分にはわからない。ただ、文学研究というものはかかるものを問題にせねばならず、結論めいたものを書かずにはおれない。それが文学といえばそうなのであろう。
 それにしても、これまで原民喜についてどれほど多くのことが書かれたことになるのか! 原自身が知ったら、目をぱちくりもさせるだろうか。まあ彼なら、静かな目をしてそれを許す(?)だろうけれど。自分について書くことで、あなたがおまんまを食べられるのなら、どうぞどうぞとでもいうのだろうか。それすらもいわず、じっと青い空でも見つめているのか。文学に携わるというのは、そういう、言及をされるということなのであろうし。そうして、文学のパンテオンに入り永遠に残される…。
 いずれにせよ、本書を読んでまあよかったと思う。おそらくはこれから本書は絶賛されることであろう。自分には、原民喜さんの生涯はちょっとつらかったが。

やはりわたしは、文学というものがよくわからない気がする。


吉本隆明全集第13巻を読む。読み始めたらおもしろくて止まらないのだが、それをうまく他人に説明できる気がしない。これ、文庫本でも読んでいるのだが、まったく何も覚えていないのである。バタイユ論もブランショ論もじつにおもしろい。でもこれ、真理の叙述みたいなものとまったくちがいますね。吉本さん自身が、うまく説明できなくて四苦八苦しておられる。こちらも、うーん、そうなのか、とか、どうもその論理はよくわからんなとか、まあそんな風に(自分は)読んでいる。ブランショ論など、「死の観念性」みたいな話から、何かサド裁判を経てカフカへ行ってしまい、最後円環を描いてブランショに戻ってくるのだが、結局何だかわからない。それは吉本さんがいけないのか、自分の頭が悪いのか、しかしそんなことをはどうでもいいのだ。吉本さんは一時期大変に崇拝され、いわば思想界のヘゲモンであったが、本質的には静かに、ゆっくり読まれるべき人かも知れないと思う。まあ、いまや若い人(というか我々の世代もそうだが)がまったく読まないのはよく承知していますが。それに、吉本さんを読んでも学術論文が書けるわけでもないし。百年後くらいに、誰かが発掘することを祈ろう。