こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの幻想曲とフーガ BWV906、前奏曲 BWV921、幻想曲 BWV1121 で、ピアノはアンドレア・パドーヴァ(NML)。BWV906 が何だか聴きたかった。BWV921 と BWV1121 は初めて聴く。

Complete Fantasias

Complete Fantasias

パーセルの四声のソナタ第三番、第四番で、演奏はパーセル・クァルテット(NMLCD)。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻第十九番 BWV864〜第二十四番 BWV869 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番 op.73 で、ピアノはシュテファン・ヴラダー、指揮はバリー・ワーズワースNML)。何という爽快な「皇帝」! 第一楽章がすばらしくフレッシュだ。ヴラダーというピアニストは初めて聴くが、自分より少し年長であるというから、もはやそう若いことはない。若い頃にベートーヴェン国際ピアノコンクールで優勝しており、この演奏は彼が二十代前半のときに録音されたものである。じつにみずみずしいピアノで、指揮もその傾向を助長している印象だ。第一楽章が特に感銘を受けたところで、はじけるようなピアノである。第二楽章、終楽章は自分の好みとしては少し重厚さが足りなくて、ちょっと物足りない感じ。ただ、いかにも新しい才能というのがビンビン出ていて、好ましい。なかなかこういう演奏というのは、やろうとしてできるものではないだろう。おそらくピアニストとしても、いつまでもこうはいかなかったのではないか知らん。
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」/ピアノ・ソナタ第15番「田園」

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」/ピアノ・ソナタ第15番「田園」

 

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十一番 K.467 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はテオドール・グシュルバウアー(NMLCD)。いい曲だな。■ラヴェル「鏡」で、ピアノは阿部裕之(NML)。ラヴェルの演奏史とでもいうものがあるとすれば、それに特筆すべき名演。この曲がラヴェルの最高傑作のひとつであることを確信させる。特に第三曲「海原の小舟」の幻想的な美しさは譬えようもない。演奏者が日本人であり、このディスクがマイナーレーベルから出ているせいで知られないということがもしあるならば、あまりにも惜しい。大袈裟なことはあまり言いたくないが、演奏芸術として最高級のレヴェルに属すると思う。

阿部裕之 ラヴェル・ピアノ・ソロ作品全集

阿部裕之 ラヴェル・ピアノ・ソロ作品全集

Windows 7 上の VMwareMac OS Snow Leopard を動かしているのだが、さすがに古くていろいろ問題がある。Safari も例えばこのブログを正確に表示することができない。それと、VMware で使うコア数を 1 にしていたらさすがに遅すぎるので、2 に引き上げて使うことにした。これなら一応 Safari も(問題があるとはいえ)ネットを閲覧できるレヴェルの速さになる。Chrome だと使っていると致命的なエラーを起こす。さすがに VMware ではちょっと無理か。Ubuntu とかだと結構仮想マシンで使っている人も見かけるのだが、Mac となるとキビシイですね。

それと Mac はキーボードも独特だし、マシンパワーをある程度要求してくるので、しっかり使いたかったら素直に Mac 本体を買った方がよいと思う。Mac はもちろんよいのだけれど、自分の好みの Linux ディストリビューションを使うスキルのある人は、むしろ Linux の方が使いやすいくらいなのではないか。それから Linux をメインで使うとわかるけれど、Linuxフリーソフトが充実している。仕事でどうしても必要というのでなければ、WindowsMac の有名ソフトにさほど劣らないものが、それも簡単にインストールできるようになっている。ここでは Linux Mint のパッケージ・インストーラーの画像を上げておこう。
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いま自分がどうしても Windows が必要というと、iTune ですね。iPad を使っているので、どうしても iTune がないと困るのだ。Linux でも一応 Wine を使って iTune が動くという話があるが、あまり推奨されていない。Mac はじつは Linux の一種なのだけれど、アップル社はオープンソースの富を還元せずに囲い込んでいますね。

「俺は壊れていて、そういう壊れている人間が生きていてよい理由が思いつかない。死ぬべきだけれど、死ぬのもこわいから生きている」というのが、自分の愛読するあるブログの中のひとの実感である。今日のエントリでも、「日本がダメになって皆んなが少ないリソースを奪い合っている現状で、生産性のないやつに税金を投入する価値がないといわれると、それは少なくとも正直な意見なのではないか。正義の人がいくら立派なことを言っても、死ぬ物狂いになっている人間の本音はそこだ」とあった(自分で勝手に発言をまとめたので、もしかしたらニュアンスがちがっているかも知れない)。僕は思うが、この人はものすごく高潔である。僕はこの人ほど経済的に追い詰められていないことを前提でいうのだが、自分ははっきりと役立たずのカスだけれど、死のうとか特に思わない。他人に迷惑をかけているのかも知れないが、それもあまり気にならない。カスで大勢の他人に多少迷惑をかけようが、それでだらだら生きていくと思う。ただしそれはいま自分の心に余裕があるせいで、自尊心もまだ失われていないから、そういうヌルいことが言えるのかも知れない。それでもやはり、そのブログ主のひとは高潔であり、あえていえば人徳があると思う。それゆえに、ブログも読まれているし、自分も愛読するほどだ。正直言って、そのひとが高潔さを発揮して自裁してしまったら、自分はおそらくひどくかなしくなると思う。杉田水脈のような(たぶん)クズを擁護するのもいいけれど、もう少し高潔さを緩めても、それでも依然として高潔だと思うので、何とか生きていてほしいものだと遠くから思っている。

自分は金のないほうが人間は高潔であるなどとはまったく思わないが(金はあった方がよい)、それでも金のないところに不思議と心やさしい人間がいるという、いやそういうことって稀にあるのだけれど、ただの偶然だろうか。心を病んでいる人間にまともな人が多いのも、ほとんど事実に思える。名前だけ「健常者」で、どうしようもないクズがたくさんいるということもまたある。いや、おとぎ話ですよ、夢を見ているんだ、このかなしい人は、とかね。はららら。