こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十七番 K.453 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はテオドール・グシュルバウアー(NMLCD)。のびやかないい曲だな。

祖父の三十三回忌。妹一家も来てくれる。法事はいつ以来だろう。
皆んなで珈琲工房ひぐち北一色店にて昼食。おいしかった。


しかしツイッターに問題の所在も正しい解決策も全部書いてあるらしいのに、何で何も変わらないのかね。いや、変わっていて自分が知らないだけなのかな。不思議。
もうツイッターを見ていてもむかつかないわたくし。いろいろなんですねって思うようになった。でもまあ、やることなくて暇つぶしにツイッターを見ているのは大概にしておこうと思う。それは皆さんに任せる。わたくしは寝る方を選択する。


アントニオ・ダマシオを読む。痛みを感じることと「痛い」と感じることがちがうというのはおもしろい。ものすごい痛みを感じながら、ふつうに快活に過ごせるということがあるのだ。不思議だな。一種の「病的な」状態ということになるのだろうが。その現象が見られたのは、ある病気の激痛に対処するためのやむを得ない手術によるものであったらしいけれども。

しかし、どうも皆さんベルクソンの『物質と記憶』をきちんと読んだ方がいいのではないかと思う。まあいわゆる筋のいい人はベルクソンというとオカルト扱いするので、誰も読まない訳だが。小林秀雄も『物質と記憶』はベルクソンの中でいちばん重要だと言っているのだけれど、そもそも小林秀雄が読まれないからなあ。時代遅れの人間がもう少しいてもいい気がするのだけれど、現状では無理ですね。


真面目で真摯な人間にこんなことを言うのは性格が悪いにも程があるのだが、若松英輔さん、ツイッターでナイーブすぎやしませんか。もうホントにごめんなさいだけれど。下らない人間にならないと、下らない人間のことはわからないと思うのだが。ミイラ取りはミイラにならないといけないと思っている。でもまあ、高みだけ見ているのが正しいのかな。下らない人間になって、だから何といわれると返す言葉がないか。

このところ、俺ってホント下らない人間になったなあと思う。前がそんなに立派だった訳でもないけれど。それだけじゃダメなのは感じますね。下らないだけだとやっぱりつまらない。カスだけでいいことはない。


常に相手の言説のメタレヴェルに立っていこうとするのが知性であると勘違いしている人が多くて、実際そういう人はきわめて頭がよいことが多い訳である(いまはツイッターでよく見かける)。東浩紀さんはかかる活動を「批評」と呼び、それは「日本固有の『病』である」と(カッコいいことを)言った。けれども、小林秀雄吉本隆明の「批評」はじつはそういうものではないのであり、かかる意味での「批評」は柄谷行人氏が典型だと思う。だから、いまや柄谷行人は大衆化したのであり、それが当り前になって御本家は陳腐化した。でもまあ、柄谷行人もじつはそれだけの人ではないのだけれどね。むしろそれは、東浩紀から遡行した柄谷行人なのだと思う。って、こんなことを言って何か意味があるのだろうか。