アントニー・D・スミス『ナショナリズムとは何か』

晴。
遅くまで寝ていた。

起きて Lubuntu 18.04 に Ruby を入れる。バージョンは 2.5.1 で、自分のインストールしている中では最新である。Lubuntu は立ち上げが速い。

和菓子「餅信」。スーパー。

昼寝のあとぼっーとしていて、ガソリンスタンドへ行ってきたらもう夕方。だらだらしている。脳みそもくさっている。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第九番 K.271 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はテオドール・グシュルバウアー(NMLCD)。導入はさり気ないのだけれど、全篇にわたって意欲的な曲。というか、自分にはむずかしい。たぶん当時の聴衆も、悪くないけれどよくわからんなくらいの感じだったのではないかと思う。モーツァルトはさり気なくむずかしいことをやる人だった。

アントニー・D・スミス『ナショナリズムとは何か』読了。入門書なのだけれど、全然やさしい本ではない。そもそも、本書では「ネイション」と「国家」という語が厳密に区別されているが、じゃあ「国家」って何のことか、訳者による説明は一切ない。訳者(あるいは大多数の人)には当り前のことなのかも知れないが、どうやら「国家」というのは state の訳語のようである。そして state と nation のちがいは、nation とは nationalism と結び付いた概念であるということになる。そしてその nationalism というのが複雑怪奇なのだから、結局 nation もよくわからない。何それ? でもまあ言葉なんてそんなものである。
 それから、本書には「愛国心」という語が稀にしか出てこないが、「愛国心」というのは nationalism のことではなくて、patriotism の訳語である。ゆえに、本書では「愛国心」という言葉があまり出てこない(索引で見てもわずか 6 箇所)わけだが、「愛国心」と「ナショナリズム」がほとんど関係ないというのは、日本語の語感からするときわめて奇妙ではあるまいか。これは、日本語がおかしいというわけではなくて、日本語と西洋語では感覚がまったくちがうということであると思う。例えば、自分はいまの日本という「国家」にかなりウンザリしているが、一方でわたしに「愛国心」がないわけではない。そのあたりが自分の矛盾であると思うのだが、さて、ここでの「国家」は state、「愛国心」は patriotism と訳してよいものなのであろうか。そもそも、そのように西洋語の用法を踏まえない日本語の使い方が、まちがっているということなのであろうか。どうもよくわからない。
 結局、本書はいろいろ説明してくれて、かなり明快なことを仰っているわけだが、自分などにはますますよくわからなくなったというのが実際のところである。また、最後の方で著者は「ナショナリズム」は真正な文化の一種(政治化した文化)だ、それを認めろ(p.296)とも言っているが、そのあたりもよくわからなかった。あまり明敏でない人には、本書はかなりむずかしゅうございました。

ナショナリズムとは何か (ちくま学芸文庫)

ナショナリズムとは何か (ちくま学芸文庫)

それにしても、「ナショナリズム」というのは厄介で、それで論争どころか、罵倒のし合い、さらには殺し合い、戦争にまで至ったりする。また、国家は「ナショナリズム」を管理しようとする。果たして「文化」で済むのかなあ。よくわかりませぬ。