田邊園子『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻より第九番 BWV854〜第十八番 BWV863 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NMLCD)。■ハイドン交響曲第九十八番で、指揮はクラウディオ・アバドNMLCD)。

お昼寝。

ダラダラばかりしていても仕方がないので、酷暑中イオンモールミスタードーナツへ行ってくる。ホット・スイーツパイ りんごとカスタード+ブレンドコーヒー486円。田邊園子氏による坂本一亀(かずき)の評伝を読む。坂本一亀は自分としてはまず坂本龍一の父親であり、三島由紀夫に『仮面の告白』を書かせた伝説的編集者というものであった。NHK の「ファミリーヒストリー」の坂本龍一氏の回で詳しく紹介されていて、それで気になっていたら、本書が図書館に入っていたので借りてきたというわけである。半分ほど読んだが、とてもおもしろい。というか、随所で感動させられて困った。坂本一亀氏は自分より遥かに大きい人物であり、ここで聞いた風なことを書くつもりはない。坂本一亀氏は本当にマンガにでもあるような伝説的編集者の典型のような人で、洵に時代を感じた。そして自分は、そのような意味での「文学」をよく知らないなと思った。文学に命をかけるというのが、ちっともおかしくないような話なのである。しかし、いまでもたぶんよい編集者はいるし、意欲的な出版社というのはおそらくあるのであり、自分がよく知らないだけなのである。また、「文学」とはちがうところで、いまの若い人たちが人生をかけてやるに値する何かも、たぶんあるにちがいない。のんべんだらりとするのもいいかげんにしようと、凡庸なことを思った。なお、本書にはところどころに林達夫氏の姿が見えていて、ちょっと目を引かれたことを書き添えておこう。

図書館から借りてきた、田邊園子『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』読了。上の感想に特に付け加えることはない。本書に息子・龍一の言葉として次のものがあるのを引用しておきたい。

今の映画にしても、それからポップスにしても、あるかのように見えるけど、ないんですよ。実は一回、解体されてるの。だけど一回解体した後に何かを建築することはできないんで、もう一回、当の壊したものを調べ直して、マニュアル化してね、一から一万まで全部、どうやったらこういうものをつくれるかと、ばらばらに書き直して、それを参照しながらやってるんですね。だから、今のポップス、ぼくは「マニュアル・ポップ」と言ってるんだけど、ぜんぶマニュアルなんですね。何かを、そういうもの作りたいという動機なんか何も感じられないわけですよ、すべて。映画もそうですね。ただ、作るっていう本来非常に手作業の行為をものすごく緻密に、超テク、ハイテクでやっていく快感だけに溺れてるだけなんですね。何も創造行為はしていないような気がする。(p.189-190)

まことにそのとおりで、これ以上いうことはない。これに気づいていない人は、ナイーブなのか無知なのか、どちらか(あるいは両方)であるしかない。でもまあそれはよい。著者は、この息子の姿勢は、父とまったく同じであるとする。この父も息子も、生きるのはマニュアル以上のものであるということを、直覚的に刷り込まれてしまっている。ただ、時代はちがっているので、息子の方はよりむずかしい生き方を強いられるしかなくなったということだ。著者は河出書房時代の坂本一亀の部下であり、龍一に依頼されて本書を執筆したとする。本書に何度も出てくるとおり、坂本一亀には合理性もへったくれもなく、部下や同僚からすればきわめてやっかいな存在であった。命令はしばしば理不尽で、軍隊式の命令口調であったという。そして、おそらく含羞によるものであろう、一種のアノニマスへの志向があった。息子の方にも、じつはそのアノニマスの志向は歴然としており、じつはバンカラともいうべき性格なのである。さて、突然であるが、現代とは何なのか、厄介なものという他ない。フェイクがすべてを覆い尽くしていく中、何か真実なものを追求することが可能なのか? しかしまあ、これは自分には大きすぎる問題である。

伝説の編集者 坂本一亀とその時代 (河出文庫)

伝説の編集者 坂本一亀とその時代 (河出文庫)

ついナイーブにも「真実なもの」などと書いてしまったが、いまや「真実なもの」って何だ、そんなものがあるのか?というところであろう。実際、そのようなものがあるのか、むずかしいところではないか。少なくとも、自分の中にそんなものはないような気がする。自分には、これを表現しなければ死んでも死に切れないというようなものはない。それは確かだ。まあそれは、自分に才能がないというだけのことかも知れないのだが。その「才能」ってのも、いまやむずかしいですね。こんなことを書いていると切りがない。


ブルガーコフを読む。