こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十七番 K.595 で、ピアノはクララ・ハスキル、指揮はフェレンツ・フリッチャイNML)。

Mozart: Piano Concertos No 19 & 27 / Haskil, Fricsay

Mozart: Piano Concertos No 19 & 27 / Haskil, Fricsay

ドビュッシー前奏曲集第一巻で、ピアノはディノ・チアーニ(NMLCD)。この曲のよさが充分わかる演奏。といっても、自分はまだこの曲がしっかりわかった気がしない。ドビュッシーの代表作のひとつですね。

二時間くらい昼寝する。昼寝が好きだ。

今日は暑い。外は 38℃である。おやつに老父の作ったスイカを皆んなで食う。冷蔵庫で冷やしたもので、甘くてみずみずしく、これまででいちばんの出来ではないか知らん。

珈琲工房ひぐち北一色店。ブレンドコーヒー450円。冷たいコーヒーゼリーが付いていて、上品でおいしかった。もちろんコーヒーもさすが。よくわからないが、今日のはグアテマラ産の豆なのだって。石牟礼道子さんを読む。石牟礼さんはそれほど読んだことがあるわけではないが、多くの方々に賞賛されるとおり、深い土着人的感性の持ち主で、ふしぎな文章である。石牟礼さんの文章にはおそらく地元熊本のであろう、方言というか、土地の言葉・言い回しがふんだんに使われているが、まったく違和感なく、岐阜の人間にも引っかかることなくふつうに読めてしまう。ローカル色を出すためのわざわざ使われた方言ではなく、完全に石牟礼さんの血肉になった熊本弁だ。この本には著者が子供の頃の思い出と現在が直結した文章が多くて、現代の中にまだある古代的な感性の存在を教えてくれる。しかしこれも、だんだんとなくなってきていることは、石牟礼さんの文章からでもわかる。昔の年寄りは、皆んなでそこいらに座って、何時間も海を見てその幸福ぶりをお互いに讃え合うという豊かな時間を過ごしていて、道子さんが子供の頃のその場を思い出して懐かしがられるところなど、ひどく印象的だった。曲線の風景に抱擁されるということ。しかし、もはやそんな座ってみたくなるような場所がないと、石牟礼さんは静かに仰るのである。

いま世界的に(そして日本でも)もっとも人気の高いプログラミング言語のひとつである Python の作者 Guido van Rossum が、Python の BDFL から退くことを発表したらしい。つまりは、Python コミュニティのリーダーから降りるということである。ここによると、もはや自分がいなくても Python の開発は回っていくし(実際にそうなっていた)、どうも端的に「疲れた」ということらしい。Guido はもう還暦を過ぎているものな。確かに Python は大成功して、あまりにも巨大になっているし。
 いま Python が人気なのは様々な理由があるが、Python は使いこなすのにあまりむずかしい言語ではなく、それでいて強力である。もはやプログラマは特殊な人間ではなくなり、ふつうの(つまりは最高度のプログラミング技術をもっていない)プログラマが大量に必要になっている現在、Python のように敷居が低くて強力であり、可読性が高く、ほぼ何でもできる言語が使われるのはまったく当然のことである。そして使われるがゆえにコミュニティが大きくなり、様々なツールが日々開発され、さらに強力になっていくという好循環にある。特に、科学技術計算と、いま流行りの「機械学習」(いわゆる「ディープラーニング」とかもこれです)は Python 一強であるといって過言ではない。
 それにしても AI がどうのと素人でもいうようになったいまであるが、機械学習の敷居は本当に低くなって、もはや誰でも参加できるくらい容易な技術のひとつになってきたのには驚かされる。Qiita などを見ていても、機械学習の話題は非常に多く、またよく読まれている。自分はやる気はあまりないが、ある意味で AI は既にふつうの技術となっているといってよいと思う。


石牟礼さんを少しずつ読む。一気に読む気になれず、自分としてはゆっくり読んでいるつもりだ。