伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』 / 原田正純『いのちの旅』

曇。
十時間以上寝た。

ちょっとだけ睡眠の後始末をして皮膚科へ行ってスーパーとかへ行ったら午前中終わり。

何で皆んな素朴な「正義」なの? 「正義ってのは最悪だ」ってのが知性じゃないの? 皆んなマジでエラそうすぎない? 何でも自分で裁けるって、どうしてそんなことが思えるの? 「社会に対する責任」とか、何? もういいかげんにしてよ、腐ったことをいう奴らは。お前ら、人間が生きる希望を殺しているのに気づかないのか。

どうでもいいことを書いた。okatake さんが江藤淳を読んでおられる。個人的なことは書いてないけれども、okatake さんはどちらかというと江藤淳に否定的なのだろうか。まあどちらでもよいので、読むのが大事、というのは自分に向けて言う。okatake さんちょっと元気がないので勝手に心配。僕も元気がないけれどね。

伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』読了。短篇集。いまこれを書く前に検索して知ったのだが、作者は男性なのですね。名前からして、女性だとばかり思って読んでいた。変な話だが、それだと読後感が結構変わってくる。というのも、本書の短篇はすべて男性が主人公なのだが、どれも(自分にとっては)じつにイヤな男で、しかもそれに自分では気づいていないというキャラクターだからだ。読んでいるときは、女性によくもこんなにイヤな男が書けるなと思って驚いていたのだが、梯子を外されてしまった。まあ、著者の性別によって読後感が変わるとか、そんないいかげんな読み方はないのだが、恥ずかしながらそうだったのだから仕方がない。とにかく、自分には甘ったれた、どうでもいい、イヤなお話たちで、読んでいて楽しくはなかったが、イヤな気持ちになるとは、それなりによい小説たちなのかもしれない。まあ、著者の小説をさらに読むかは、ちょっと微妙である。なお、表題作は芥川賞受賞作。特にどうということもない。悪口ばかり書いてごめんなさい。

八月の路上に捨てる (文春文庫)

八月の路上に捨てる (文春文庫)

 

原田正純氏の本を読む。時々涙を拭いながら、半分ほど読んだ。あれは誰の本だったか、アウシュビッツの生き残りだったかと思うが、「世の中には結局、まともな人間とそうでない人間とだけがいるのだ」というような文章を覚えているけれども、本書はそれを何度も思い出させた。さて、わたしはいざというとき、その「まともな人間」の方に属することができるのであろうか。なるたけそうありたいとは思っているが、クリティカルな時点に立ってみないと結局のところわからない。とにかく、本書の「まともな人」たちが、滅多にいないからこそセンチメンタルなわたしを泣かせるのだ。本当に滅多にいないのだが。

いっておくが、わたしは別に立派な人間ではない。けれども、まだ立派な人間が多少はわかるような気がするだけである。


原田正純『いのちの旅』読了。副題「『水俣学』への軌跡」。著者は水俣病研究の第一人者であり、長年患者たちに寄り添ってきた医師である。2012年死去。本書は短い文章を集めた薄い本であるが、読み応えはある。水俣病の研究書ではなく、エッセイのような形式を取っているが、さて、何と呼ぶべきか。偉ぶることのない、みずからに厳しい淡々とした文章たちであり、しかし感情を底に秘めたところがあって、そこが稀なところだ。倫理観は高く、そのレヴェルには正直言って自分などはついていけないものを感じて、情けないものがある。本書の終わり近くに、こんな文章がある。「世界の環境汚染の現場を多少歩き回ってみると、環境問題に関して将来に期待が持てる明るい材料はほとんどない」(p.197)と。「わたしたちの子孫はどうなるだろうか」とも。わたしは思うが、それは確かに「環境問題」ではあるが、むしろ「人間問題」というべきなのではないだろうか。本書を読んでいると、こともあろうに環境庁が著者らの活動に妨害をかけてきて苦笑させられるが、国家というのはそういうものなのである。もっともひどいのは日本だけではなく、欧米でも見通しはあまり明るくなさそうだ。「まもとな人」たちが次第に少なくなり、そのアンチポデスたちが次第に増えている状況である。我々庶民が、確かにしっかりしないといけないのだが、なかなかにむずかしいことを思う。酸素が少なくなってくる中での、ゆっくりした探索ということになっているのは、仕方がない気がする。既に息苦しいのだけれど。

しかし、こういう本を読んでこういうのは変かも知れないが、我々は政治とか経済とか何とかでエラソーなことを言うのもいいけれど(それは別によい)、もっと自分たちの生活を大切にすべきではないだろうか。クソのような生活をしていて、政治も経済もないものだという気もする(何のことやら)。著者にだって、それはたぶん賛成していただけるようにも思うのだが。自分の生活が第一である庶民が、すべて正しいとは限らないが、すべての根本であるのは確かだ。例えば吉本さんの「大衆の原像」というのも、そういうものだったのではないか。庶民は、知識人的「正義」を追ってはいけない気がする。まあ、そういってもお勉強するのがいけないわけでもないしね。うまく言えないな。

論理も大事だし、感情も大事ですよ。何かおかしいという、ささいな疑問を殺さないようにしないといけない。それに、誤りは素直に認めないといけない。これがむずかしい。むむむ。

それにしても、我々大衆はどこへ行っちゃうのかね。とんでもない方向へ進み始めている。正直言って、おそろしい気がする。若い人たちを見ていると、特にそう思う。


あんまりマジメ一方もどうかなので、ブルガーコフを読む。おもしろいです。