町田康『スピンク日記』 / 中村元編『原典訳 原始仏典(下)』

日曜日。曇。
起きてたまたま内田樹のブログを見ていて、ふとそのはてブを覗いて後悔する。何でこんな口汚いことが書けるのだ。僕も内田樹はくだらんなと思うときもあるが、こんな口汚いはてブコメントを書き込む奴らよりは遥かにまともである。finalvent氏ははてブは「これはひどい」ボタンだと言っていたが、まさしくそれ。「いいね!」ボタンより「これはひどい」ボタンの方が好きな奴が多すぎる。いろんな意見を満遍なく知りたいからはてブ好きと書いている人がいて、理屈としてはわかるが、自分のように気の弱い人間にははてブは耐えられない。ついでに、ツイッターも耐えられないのだが、もうこれはこれまで言いすぎたくらいなので自重しておく。僕は、これらインターネット機能は人間を終わらせたと思う。というか、人間のダメさをとことんまで可視化したのだ。もう、人間のダメさをあまり見たくない。自分のダメさだけでも持て余しているのに。
 そうそう、finalvent氏は自分はまああまり好きではないのだが、いまやブログを書くのにうんざりしておられるのがよく伝わってくる。ネットを見ていると、人類というか日本人さっさと滅びた方がいいよとつくづく思う。自分も既にあまり生存していたくもない。気力が萎えている。


NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第一番 op.2-1 で、ピアノはヴィルヘルム・ケンプNMLCD)。終楽章に特に感動する。いい曲だな。ケンプもすばらしいな。バックハウスの全集に匹敵するのではないか。■バッハのフランス組曲第四番 BWV815、半音階的幻想曲とフーガ BWV903、リゲティの「ハンガリーパッサカリア」、「ハンガリーのロック(シャコンヌ)」、武満徹の「夢見る雨」で、チェンバロは鈴木優人(NML)。バッハ、スウェーリンクからリゲティ、武満まで、邦人チェンバリストのオムニバス作品集。バッハのクラヴィア曲はピアノで弾くのがいいのか、チェンバロにすべきなのかむずかしいが、フランス組曲などはどちらかといえばチェンバロに合っているのかも知れない。このアルマンドなど、その方がゆるやかに自然なテンポで弾けるように思える。逆に、半音階的幻想曲は、昔の大家たちがピアノでよく弾いたもので(いまの人はこの曲を弾かなくなった)、そのロマンティックで大時代的な演奏に慣れているので、これはあんまりあっさりしてもの足りなかった。もっとも、これはこちらがおかしいのだろう。リゲティチェンバロ曲はおもしろい曲が多いという印象なので、いい着眼点。しかしこういうアルバムを聴いていると、音楽っていいなあとか無意味なことを思ってみたりする。

rencontre

rencontre

マーラーのピアノ四重奏曲イ短調で、演奏はダニエル・ホープ、ウー・ハン他(NMLCD)。この曲は学校の卒業制作か何かそういうもので、このところ結構耳にするがマーラーは苦笑しているでもあろう。決してマーラーの名誉になるような曲ではない。それから演奏であるが、シューマンのときも思ったけれども自分には全然わからない。ライブ録音らしいのですばらしい演奏ということで CD化されたのかも知れないが、まったく納得できないのだ。技術的にもアンサンブル的にも問題はないけれども。ブラームスは、さて聴くかどうしようかなあ。

米屋。肉屋。蒸し暑い。

町田康『スピンク日記』読了。安定のおもしろさ。以前ほど爆笑はできなかったけれど(こちらが変ってしまったのかな)、それでも至るところで笑わされた。プードルであるスピンク君の語りは、今までのポチさん(主人の町田さんのことがこう呼ばれている)の小説にはなかった気がしますね。ホント、色んなトーンが使えるポチさんだと思う。それから、解説で伊藤比呂美さんのところのパピヨンのニコさんが言っているとおり、スピンク君の兄弟のキューティー・セバスチャン君が元気になったのにはホッとしました。どうも、ポチさんのところに来るまでは、虐待を受けていたようで、本書に多数収録されている写真でも、最初の頃のガリガリに痩せていたのには胸が痛みました。それが、あとの方になるとどちらがスピンク君なのか一瞬わからないくらい元気そうなプードルの姿で、よかったなあと思わされます。そう思うと、本書に底流している感情はむしろ哀しいような、かつ幸福なような印象で、スピンク君から見た人間世界はこれなら悪くないんじゃないかと思いました。そうして、静かな時間が過ぎていけばそれ以上望むことはないようにも思われます。スピンク君から見たポチさんは阿呆ですが、きっと幸せなんだろうと心から感じました。

スピンク日記 (講談社文庫)

スピンク日記 (講談社文庫)

 
中村元編『原典訳 原始仏典(下)』読了。