喜安朗&川北稔『大都会の誕生』

曇。
寝坊。九時間半くらい眠る。すごくイヤな夢というか、悪夢を延々と見る。起きてもよかったのだけれど、興味深かったのでずっと見ていた。悪夢は重要であることが多い。起きてからも反芻していた。

図書館。強い雨になる。
モスバーガーのドライブスルーにて昼食。


NML で音楽を聴く。■バッハのトッカータ ホ短調 BWV914、イタリア協奏曲 BWV917、フランス組曲第二番 BWV813、パルティータ第六番 BWV830、平均律クラヴィーア曲集第一巻〜第二番 BWV847 で、ピアノはエレーナ・クシュネローヴァ(NML)。2000/3/22 のライブ録音。すばらしい演奏会だったから CD化されたのであろう。まさにそれにふさわしい、オール・バッハの演奏会である。自分と本当に相性がよかった。選曲もよくて、自分でもトッカータならホ短調 BWV914 を選んだろうし、パルティータなら第六番を選んだろう。特にこの二曲の演奏がドラマティックだった。聴いていて疲れたくらい充実していました。ああ、いいものを聴いた。

J.S.バッハ:イタリア協奏曲 他 (Bach, Johann Sebastian: Italienisches Konzert u.a.)

J.S.バッハ:イタリア協奏曲 他 (Bach, Johann Sebastian: Italienisches Konzert u.a.)

 

喜安朗&川北稔『大都会の誕生』読了。なかなか意欲的な本。これはちょっと古い本で、いまってこういうおもしろい歴史書ってあるのかい? 自分はよく知らないのだが、小むずかしい本ばかりがあるような気がする。これは気がするだけかも知れないが。

大都会の誕生 (ちくま学芸文庫)

大都会の誕生 (ちくま学芸文庫)

この十年くらいで、中間的な本というのがめっきり減ったのを感じる。学者はむずかしい専門書ばかり読んでいるというような。で、一般人が読めるような、専門書だか何だかわからないような本が減った。これは若い学者が優秀になったこととも関係がある気がする。まあ、学者の質が上がることはいいことですよね。で、ツイッターとかでエラそうなことをつぶやいている物知りたちが、例えば司馬遼太郎をバカにするようになった。好きにしろという感じ。柄谷行人がバカにされるのも、同じ文脈だな。まあ、自分も最近の柄谷行人の精彩を欠いているのにはまったく同情しないけれども。でも、叩いている奴らも叩いている奴らだからなあ。とかどうでもいい話。

よい「中間的な本」を書くのには本当に力が必要なのだけれどな。そういうことも既にわからないか。

どの領域でも、大先生たちが軒並み七十を超えられているのを感じる。あとは優秀きわまりない小物たちのパレードだ。王様は死んだ。王様バンザイ!

しかし、かつてはよかったとか言っていたって、何にもならない。

福田和也が若い頃に連載していた未完の評論たちが一冊に纏まったので読んでいる。おもしろいっすね。福田氏がいま何を書いているのかまったく知らないが、とにかくその名前を見かけなくなった。最近では、東浩紀さんが一刀両断に切り捨てておしまいという状況であり、若い人たちへの知名度もほとんどないと思われるが、一時期はなかなか勢いのある文芸評論家だったものである。実力もあって、自分の中の村上龍とか高村薫を文学的に殺害したのは福田和也であるし、池澤夏樹須賀敦子をつまらないと言っていいのだと教えてくれたのも福田和也だった。坪内祐三氏と組んだあたりから、自分は読まなくなってしまったが。いま、若い頃の文章を読んでみると、まあ到底自分に歯が立つようなものではないのだが、文章を読む楽しみをつくづく感じる。そりゃ、ふつうの意味(かつての)でまったく教養のない東浩紀さんなどに、福田和也がわかるわけがない。豪奢な濫費とでもいうのか、何だかわからないけれど、福田和也には贅沢さがある。そこのところで、いまの時代とはまったく合わないし、また究極のところでは自分ともまた合わないのだろう。いずれにせよ、おもしろく読んでいます。