岩波文庫版『大乗起信論』 / 井筒俊彦『意識の形而上学』

晴。
早起き。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第二十四番 K.376 で、ヴァイオリンはアンネ=ゾフィー・ムター、ピアノはランバート・オルキス(NMLCD)。■スカルラッティソナタ K.20, K.135, K.9, K.119, K.1 で、ピアノはイーヴォ・ポゴレリチNML)。僕はポゴレリチがあまりわからない人なのだが、嫌いかといわれるとそうでもない。ユニークで音が美しくて、こういう人がもっといていいと思う。そんな具合であるが、じつは自分が数少ない実演で聴いた音楽家のうちに、ポゴレリチが入っているのである。僕が実演にいかないのは簡単な理由で、外国の音楽家中部地方で演奏会を開くことがめったにないからである。(いや、めんどうくさいせいもあるかな。)そんなで演奏会へ行くという選択肢が既にないのだが、20年くらい前か、ポゴレリチがじつに岐阜に来たことがあったのだ。それで、特に好きなピアニストでもないポゴレリチの演奏会に行ったのである。(その前後にシフも岐阜に来て、それも行った。)確かオール・スカルラッティのプログラムで、演奏がどんな具合だったのかとかはまったく覚えていない。あと、アンコールがなかったのを覚えている。まあ、そんなだ。

スカルラッティ:ソナタ集

スカルラッティ:ソナタ集

メンデルスゾーン交響曲第四番 op.90 で、指揮はクラウディオ・アバドNMLCD)。■シューベルトのピアノ・ソナタ第二番 D279 で、ピアノはワルター・クリーン(NMLCD)。

カルコス。本を買おうと思えばいくらでも買えるのだが、こちらの感性が摩滅して買いたいと思えるような本がなかなか見つからなくなってしまった。ここのようなよい本屋でも、あまり楽しい気分になれなくなった。ただ、救いは「群像」の中沢さんの連載である。今月はさらにすごかった。まさしく、東洋思想を現代に復活させアップデートするという、殆ど無謀な力技である。「生命体の科学」の土台を構築する試みでもあろう。単行本になるのが待ち遠しい。自分などにはこの論考のほんの一部しか汲み取れないのが残念である。このようなものを読むと、虚無なんかに浸っていてはいけないなとつくづく思わされる。おそらく自分には一生かかっても少ししかわかるまいが、何とか努力しようと思った。とりあえず岩波文庫の『大乗起信論』と、井筒先生の『意識の形而上学』を本棚から取り出してきた。しかし、華厳はどうしようもない。どんな本を買ったらよいのだろう。現代語訳とか、あるはずないよね。

しかし、「一生かかっても」と書いたけれども、ふつうに長生きしたところであと自分に残された時間はもう多くないのだな。考えるということができるのは、あとせいぜい二十年くらいかも知れない。まさに日暮れて道遠し。少年老いやすく学成りがたしという言葉もあったな。まあでも、そんなことは言っても仕方がないし、どうでもいいといえばそうなのだ。人生そのものが無駄なのだから。


岩波文庫版『大乗起信論』の現代語訳の部分を読み終えた。再読ではあるが、事実上初読に等しい。原文にも読み下しにも当たっていないのであるが、とりあえず読んでみて、これはコンパクトできれいに整理されており、自分のようなレヴェルの人間にも裨益するところが大きいのは意外だった。低レヴェルなりに読めるようになっているし、またそういう者に対しても親切なのである。ただ、蓮實重彦氏が「読めば読めてしまう」と仰るとおり、まあ読めてしまうだけであるが。本書の記述をみずから試して会得しなければ何の意味もないし、本書の存在理由もそこにある。本書の親切なところとして、お前のレヴェルはこのあたりだよとマップを明快に提示しているところなどはじつにありがたい。もちろん、深遠な部分は頭で理解しただけのことである。まだまだ、それこそ道は遠い。

大乗起信論 (岩波文庫)

大乗起信論 (岩波文庫)

 
井筒俊彦『意識の形而上学』読了。再読、いや三読か。井筒先生の遺作である。先ほど『大乗起信論』の現代語訳を読んだからであろう、いや、わかる、わかるぞという感じだった。これは意外。しかし、井筒先生の著書は扱っている内容が超ムズカシイだけで、記述はどれも極めて明快である。先生は本書で『大乗起信論』を「哲学的に」読んだと書いておられるが、まあそうなのだけれど、本書は紛れもなくひとつの「仏典」でもあろう。それも、すばらしい「仏典」である。そのためには、書かれていない部分を自分で補えばいいのだ。もちろん、自分が頭だけでわかっている部分が多いのは仕方がない。いや、頭だけの理解でも、

それは要するに、M領域、すなわち「アラヤ識」が、形相的(三字傍点)意味分節のトポスだからである。形相的意味分節、イデア的・「言語アプリオリ的」意味分節。存在界の一切が、そこではすでに、予め全部分節されている。(p.97)

には目が点になったりした。これは井筒先生の仰るとおり、『大乗起信論』の書いていないところである。なるほど、そういうことなのかという感じ。つまり、この領域こそが、「無意識は言語のように分節されている」というラカンの「無意識」に相当するものではないのか。井筒先生も「アラヤ識」といわゆる「無意識」の関係について記述しておられる。もっとも、先生はあまり「無意識」という単語を使われない。それは、いわゆる精神分析学的な「無意識」が、じつは意識に他ならないからであろう。そういうことになっているがゆえに、精神分析学は「無意識」を具体的に分析できるのである(もっとも、精神分析学でもラカンの「無意識」は少しちがうのではないか)。
 ちょっと話が深入りした。さても、この小著は『大乗起信論』のコンパクトさと好一対だ。共に小さいながら、大変な起爆力をもっている。今日読んだ中沢さんの論考も、井筒先生の考えを咀嚼していることは明らかだ。単行本が出たら、この『意識の形而上学』と是非比較してみたいと思う。
 何かで読んだ覚えがあるが、井筒先生はこのあと空海を取り扱われる予定だったらしい。それを読むことができなくて、非常に残念な思いがある。あと十年先生の命があったら! 何という人類の損失だったことだろう。

東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫)

東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫)