椹木野衣『震美術論』

今日も曇っている。
ちょっと空疎感があるので、大悲で心を満たすようにする。これが心の土台だ。基本が大事なのである。

洗濯。晴れてくれないかなあ。

お昼御飯。こんな写真ばかりでごめんなさい。

ほうれんそうのバター炒め。ハムを焼いたもの。ポテトサラダ残り。妹に目玉焼きと味噌汁を作ってもらいました。なかなかよくね? ウチの味噌汁確かにうまい。
でも、父には悪いけれど、普段お昼まで作るのはちょっと大変なのだよなあ。後片付けも面倒。面倒とかいうなって? まあ仕方がないのですよ。

面会。家族四人で話す。治療が始まるまではちょっと中休みという感じ。元気で妹も多少安心したろう。いつものとおり、夕御飯について相談する。そればっかりですね。
帰りにスーパー。


今日の夕食。こんな写真ばかりなので、まあいいかげんにした方がいいかな。

牛肉とワケギを炒めたもの。アサリの酒蒸しは妹が作ってくれた。苺。自家製のサニーレタス。なかなかよろしかった。

図書館から借りてきた、椹木野衣『震美術論』読了。椹木は確かに大変優れた才能ある美術批評家であると思うが…。本書でも言いたいことはよくわかる。もしかしたらまったく的を外した感想かも知れないが、しかしアートというのは、どうしてこう幼稚くさいのか。椹木ほどの人でもこんなものなのか。もちろん幼稚であっていけないのか、むしろアートは幼稚さを積極的に保存するという存在で、幼稚だからこそ意味があるということは言えるだろう。しかし、東日本大震災を扱う本書を読んでいて、どうもちがうという無意味な感想が浮かんできて仕方がなかった。自分には、アートは言葉にすぎないと感じられる。「すぎない」という言い方は、あるいはまちがっているかも知れない。ある意味では、すべてが「言葉」なのだから。しかしここでは、そういう井筒俊彦的な意味ではなく、その語を悪い意味で使う。言葉言葉言葉。饒舌で多弁な言葉ばかりだ。真の沈黙など、どこにもない。

震美術論 (BT BOOKS)

震美術論 (BT BOOKS)

まあ、いまの特殊な精神状態がそう思わせるのかも知れないのだが。というかきっとそうなのだろう。しかし、そう感じてしまったのは確かである。で、アートなどどうでもいい、下らぬものなのではないかという気がどうしてもした。けれどまた一方、人間など下らぬ存在なのだから、それでいいような気もする。とにかく、椹木みたいな優秀な人というのは面倒くさいのだ。