母に付き添って大阪へ

晴。

母に付き添って大阪へ。あまり希望の持てる話ではなかったが、とにもかくにも話は動き出した。行ってよかったというか、遅すぎたくらいである。帰りに、家族二度めの大ピンチだねという話になった。とりあえず淡々と数日後を待つしかない。

大阪はすごい数の人だった。岐阜羽島の閑散ぶりは何なのだという話に。

あちらこちらで桜が咲いていた。


iPad で見ていました。おもしろかった。これから落語はちょっと聴こうかなという感じ。

これからあまり中身がなくなるかも知れませんが、ふつうにブログは更新しようと思っています。よろしくお願いします。

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とある科学の超電磁砲」第5話を観る。

 

現代の俳句 (講談社学術文庫 (1056))

現代の俳句 (講談社学術文庫 (1056))

いつか現代俳句を読もうとだいぶ前に母に教えてもらった*1本書を読み始めた。アンソロジーである。俳句というと学生時代に芭蕉漱石を多少読んで以来で何も知らないが、じつにおもしろい。一気に読むような本ではもちろんないのだが、かなり読んでしまっていいかげんにしておく。やはりいろいろ気に入ったりこいつはいまひとつとか感想はあるのだが、もちろん無意味で、正直言って何でもおもしろい感じ。初学者の特権であろう。まあ好みとしては、表現を狙ったものは自分にはどうもおもしろくないようで、「月並み」ではいけないわけだが、却って「月並み」すれすれの「詠み人知らず」的なものの方が好きであるようだ。また、虚子よりも蛇笏の方が数等上じゃないのとか、これは初学者ゆえの暴言であろう。まずはゆっくり読みたい。

中沢さんが、短歌は現代にあって生命力を失ったけれど、俳句はそれどころではないと仰ったのが思い出される。どういう意味かまだわからないけれど、それなりにわかるような気もする。現代的な短歌というと(何も知らないが)俵万智さんとか穂村さんとかがすぐに思い浮かぶけれど、これはコマーシャリズムのおもしろさであるような感じがする。いや、これも何もわかっていないのでしょうけれどね。それから、寺山修司とかは自分には貧乏くさい印象しかない。これもわかっていない。

でも、伝統的な和歌はそのうち読むのではないかと思う。恥ずかしいことに「古今」くらいしか読んでいないので。これは吉本さんからの影響。

僕には須賀敦子は人畜無害な文章家に思えていたのだが、思いつきだけれども、ハードボイルドとしての須賀敦子という視点はどうだろう。これで結構行けない? これは、関川夏央をハードボイルドといった okatake さんからの連想。

仏教について書かれたすばらしいブログを読んだ。宮崎という人と呉という人の対談本について書かれていた。僕は宮崎という人はせっせと膨大な知識という煩悩を溜め込んでいる人としてバカらしいけれど愛すべき人だと思っている。これは決して皮肉でない。この人は一生仏教のことはわからないが、それはそれで立派な生き方でないことはないのである。このブログもすごい。このパンク、やるなあと思う。泥水の中でも蓮華は咲く。そうではないか? 我々にはそれしかない。永遠のものでなくともよい。そんなものは我々には許されていないのだから。

ふう。

*1:どうやら2011年12月にアマゾンで買ったらしい。6年以上も前か。アマゾンのページを見たらそう表示されてびっくり。ちなみに今日母から聞いた通り、いまや高い古書価がついているな。