こともなし

雨。


バッハの12の小前奏曲 BWV924, 939, 999, 925, 926, 940, 941, 927, 928, 929, 930, 942 で、ピアノはタチアナ・ニコラーエワ。どうも聴いたことがない曲たちのようだが、グールドは録音していないのかな。ニコラーエワのバッハは定評があるものだが、やはり安定している。


バッハのフランス風序曲 BWV831 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルリヒテルはこのところ聴いていなかったが、これが自分の座標原点という感じがする。僕はリヒテル以上のピアニストは過去にいなかったと思っているし、また将来も現れないであろうとも思っている。これを聴いて、え、そうなのと感じる人も多いだろうが。リヒテルをどう捉えるかで、その人の実力がわかるような気がするな。


はてなブログへの今回のスパムコメントはかなり大規模にやっているようで、検索に引っかかってくるようになった。母のブログでもひどくて、先ほど設定を変えたところ。はてなはまだ把握していないのかな。しかし一日に10も20もくるようだと誰でもすぐにスパムだとわかるので、まったく無意味だと思うのだけれど。むしろはてなへの攻撃みたいに機能している。

小雨の中、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップへ。ポン・デ・リングブレンドコーヒー。図書館本の椹木野衣を読む。著者の本はそこそこ読んできたつもりであったが、これまでは著者の実力がよくわかっていなかったな。たんに美術評論家に留まらない、優れた思想家レヴェルの存在であることを思い知る。著者の創造した「日本という『悪い場所』」なる言葉は、いまでも重要な批評タームとして美術批評の枠を超えて流通している。本書は東日本大震災のあと、その「悪い場所」の概念がさらに深化していることをはっきりと示している。自分はこのタームをしっかり理解していなかったね。本書では「悪い場所」がまさしく日本の自然・風土と災害に密接な関係をもっていることを明らかにしているが、それは日本に住むということが個人を確率・統計的な存在とするという考え方に近いのではあるまいか。例えば古い言葉でいえば「無常観」。実際「悪い場所」の概念は「無常観」の現代的言い換えであると見ることもできるだろう。ちなみに現代における我々の「確率・統計的な存在」化というのは、東浩紀氏がそのソルジェニーツィンを扱ったデビュー作の内容を思わせるが、話を脱線させると東氏のかかる発想は氏の「動物化」の概念にも通底していることを我々は理解せねばならないだろう。本書を引き続き読みたい。

例えば近い将来起きるとされる東南海地震では死者の数が30万人を超えるという予測すらあるが、東海地方に住む我々は確率的存在として既にこの中に組み込まれている。岐阜に住む自分としてもある確率でその中に入っているし、例えば静岡県の沿岸部に住む人間ならその確率はさらに高くなるだろう。しかし、我々はあたかもそれがあり得ないかのように生活し続けなければならないということは否定できない。対策を立てることはできるが、それでもつまるところ「運」(つまり確率)なのだ。先日我が家は建物のいわゆる「耐震診断」をしてもらったが、我々はその結果を見て、それを「なかったこと」にした。結局、対策としては(我々にとっては)膨大なお金をかけて家を「耐震化」するか、でなければいまの家を放棄するしかない、ということがわかったからである。もちろん愚かな選択であることは知っているが、両親は高齢であるし、わたしも先のない無職の中年独身者である。これが結婚して子供でもいれば、またちがった対応になるのだろうが。そして、我々と似たような選択をする人は、少なくないと思うのである。上の本を読みつつ、そんなことを考えていた。

それにしても、検索していて「地名公表 M9.1南海トラフ巨大地震 生存率0%の街はここだ!」というような記事を見るとさすがにドキッとする。実際、そういう街で毎日の生活を営んでいる人たちというのは、どういう気持ちなのだろうか。でも、その時はほぼ確実に死ぬとわかっていても、多くの人々はそこで暮らす道を選ぶのである。それは愚かというものなのだろうか。わたしにはさっぱりわからない、というか、とても「愚か」なんてことをいう気にならない。そもそも、人間の長期的な死亡率は 100%である。そして、さらに大きいことをいえば、人類が滅亡する長期的な確率ももちろん 100%である。これはちょっと関係ないか。

C言語と Go言語でバブルソートを実装してみる(参照)。

延々とヒープソートを実装していた。(AM02:55)