鈴木大拙『仏教の大意』

日曜日。晴。
奇妙な夢を見た。


バッハのイギリス組曲第四番 BWV809 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ


フランティシェック・ヴィンツェンツ・クラマーシュ(フランツ・クロンマー)のクラリネット協奏曲 op.36 で、クラリネットはデイヴィッド・グレイザー、指揮はイェルク・フェルバー。

せりか書房、『森のバロック』も絶版か。どこかの文庫に入ったのは知っているけれど。自分が学生のとき多大なインパクトを受けた書物なので、さみしい。中沢さんはあそこから確かに随分と前進されたけれど(天才である)、あの本は力作なのだが。まあしかし、あれに影響を受けたとかまったくただのひとつも見たことがないので、仕方がないのだろうな。でも、あそこ以外、いったいどこに出発点を求めよというのか。皆んな何を土台にしているのだ? 経済学? 社会学

森のバロック

森のバロック

いま、かつて自分がこれの何にインパクトを受けたのか考えてみると、なかなかむずかしい。いまだ現在進行形だからね。ひとつ言えるのは、すべての土台が崩れ去ったあと、我々は何とかして足場を作らないといけない、その努力があそこでなされていたということである。「モダン」というものの崩壊。いまの状況というのは、その崩壊した「モダン」に何とかしがみついて、まったくニヒリスティックなプラグマティズムを営営孜々と墨守しているというものであろう。いまの若い優秀な学者たちなどはこれである。まあこれも尊敬できないことはないが、未来はまるでない。世界はこの方向に進み、ニヒリスティックなディストピアが既に成立している。たぶんこれを崩すことはもうできないが、中沢さんはこれに何とか風穴を開けようとしてきたし、自分もそれに共感したと。そういうことだったのかな、あと付けで考えると。まあこれも辻褄合わせみたいなものですね。

それにしても、こうなると予想はしていたが、快楽中枢を刺激しつづけることを旨とする一生というライフスタイルが自明のものとなったというのは、自分にはやはり驚き以外のものではない。マルクスの「自然史過程」というのは、そこに到達するのであろうか? 僕は、それが真実であるというのはいかにもさみしいと思うのだが。いやしかし、ここいらになると自分のいまの能力ではどうしようもないというのも事実である。僕は快楽中枢を刺激しつづける一生よりも、ずっとぼーっとしている一生の方を選びたい気がする。バカですね。

昼から肉屋。スーパー。
いい天気で街には人がいっぱい出ていた。あんまり暗いことはいわないで、皆んなしあわせならいいのだと思った。
ひさしぶりに行ったスーパーが潰れていた。

散歩。


白山神社で餅撒きをやっていた。じつにひさしぶりに見た。自分も20代のときにやったことがある。厄年に、厄を餅に封じて皆んなに拾ってもらい、厄を分担してもらおうという意味がある。これ、どれくらいの普遍性のある行事なのか知らないが、このあたりでは昔からやってきたものだ。あと、嫁入りがあると屋根から菓子を撒くというのもかつてはあったが、最近は見たことがない。これは幸せをおすそ分けしようというものなのかな。

しかしツイッターを見ていると反吐が出るな。人間の卑劣さと卑小さと下らなさがぶちまけられていて、これを見ていて心が悪意に満ちない方がおかしい。特にいわゆる「知識人」。ツイッターこそが現代そのものなのだが、まともな人は見ないのが正解かも知れない。いまも自分の中にドス黒いものが渦巻いている。他人を罵倒したくなって仕方がなく、抑えるのが大変。恐ろしい時代になった。

それにしても、今回の騒動ほど、「正義」というものの邪悪さを確認できたものはない。正直言ってこのところ確信がゆらいできていたのだが、やはりはっきりとわかった。自分もこれから「正義」を語らないとはいえないが、それが邪悪な行為であることを忘れずにそうしたいと思う。正しいことは大切だが、「正義」になってはいけないのだ。自分というバカの確信である。

早寝。深夜に起きて読書。

図書館から借りてきた、鈴木大拙『仏教の大意』読了。この一冊だけでも充分やっていける。いつの間にこんな本が出ていたかな。買って繰り返し読んでもいい気がする。それにしても桑原武夫大拙妙好人(のようなつまらないもの、ということであろう)を高く評価したのを訝しみ、大拙を侮ったそうであるが、桑原武夫ってのはその程度の人間であったか。まあそんなことはいいけれど、まだまだ自分はほんに未熟者であると理解している。本書を読んで何度も諭されたところであった。凡夫は孜々として励み続けねばならない。いまだ幼稚園児レヴェルである。

本書はいま中沢さんが連載している「レンマ学」の注釈としても読めるだろう。それにしても、大拙師の華厳理解はまだまだ自分には猫に小判であるな。さても先は長く遠い。一生大拙師の背中を見て歩むことになろう。それでまたよし。もちろん、自分なりに一底通じなければならないのは当然なのであるが。

大拙師はもともと在野の人であったのだな。あまりにもえらい人なので、大拙師が既成仏教から離れたところで世界史的な仕事をしたことを、つい忘れがちである。大拙師自身にはそのようなことはもちろんどうでもいいことであったろうが、いろいろ考えさせられる話ではないか。

しかし、大拙師を侮る人間はいまでもたくさん居そうであるな。海のように広い贈与の精神があっても、受ける側に準備がなければどうしようもない。尽きることのない真の財宝にまったく気づくことがないのだ。もったいない話である。

調べてみると、県図書館には岩波書店から出た鈴木大拙全集を始め、大拙関連の書物が多数あるようだ(上の本も県図書館で借りたものである)。さすがに県図書館だな。ありがたい。