北川憲一&古賀大己&澤路毅彦『非正規クライシス』 / いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』

晴。


武満徹の「海へ II」で、指揮は小澤征爾、水戸室内管弦楽団


ストラヴィンスキー組曲「プルチネルラ」で、指揮は小澤征爾、水戸室内管弦楽団小澤征爾もすばらしいし、水戸室内管弦楽団ってこんなにいいオーケストラだったのだな。


ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十一番 op.110 で、ピアノはダニエル・バレンボイム


シューベルトの「死と乙女」(弦楽合奏版、マーラー編曲)で、指揮は小澤征爾、水戸室内管弦楽団小澤征爾にハマっている。これまで音楽を長らく聴いてきて、小澤征爾がやっとわかるようになるとは。以前は浅田彰さんのように、小澤は世界水準というだけにすぎない、と思っていたのだが。しかし、小澤征爾の魅力をはっきり指摘することはむずかしい。誤解を受ける表現になるが、小澤の音楽はそれほど美しいわけでも、楽しいわけでもないとも言える。ただ、その広大な射程と、音楽への深い devotion があり、圧倒的な集中力がすばらしい。小澤征爾を聴くとき、例えば音楽の開始時の集中力に気をつけているといいと思う。小澤の音楽の始まりは、こちらも息を詰めて待つことになるのだ。

内田光子を聴くには彼女が日本人であるということを考える必要はほとんどないが、小澤征爾が日本人であるということは気になる。しかし、西洋が小澤を受け入れたというのは、やはり懐の深さだな。いまさらながら驚かずにはいられない。
 

スクリャービンのピアノ・ソナタ第三番 op.23 で、ピアノはラザール・ベルマン。スクリャービンよりロマンティックな音楽は存在しない。この曲の最高の演奏が聴けて幸せな気分。


ヴォーン・ウィリアムズの「幻想五重奏曲」で、演奏は Endellion Quartet。これいいなあ。田舎くさくてダサいかも知れないが、自分にはいい。
 

散歩。写真は撮れなかったけれど、自分のすぐそばにジョウビタキを見た。老母の話だと、平気で近くまで寄ってくる鳥らしい。

 

図書館から借りてきた、北川憲一&古賀大己&澤路毅彦『非正規クライシス』読了。朝日新聞連載の単行本化。非正規雇用、特に派遣労働に関するルポルタージュである。予想どおり、特に驚くべき内容はない。ネットなどでも既に流通している事実を確認することになった。基本的な事実としては、現在労働者の 4割近くが非正規雇用者であり、実数でいうと 2000万人を超える。非正規雇用者の 8割が年収 300万円以下である。2016年の調査では、非正規雇用者の未婚率は 63.4%。正規雇用者の考えるところでは非正規雇用者は社会の落伍者であり、能力的に低いから現状は已むを得ない、むしろ当然であるということかも知れない。けれども、4割が劣等者であるとするのは、ちょっと常軌を逸しているのではないかと思う。そしてさらに、非正規雇用者の仕事内容は正規雇用者と変わらない場合が少なくない。これも非正規雇用者が劣等者であるとするなら、おかしな話ではないか。
 本書の最後に「同一労働同一賃金」の話が出ているが、仮にこれがまともに実施されるなら、事態の一部は大きく改善することになろう。けれども、自分は正直言って半信半疑である。というよりも、ほとんど信用していない。現行の労働者派遣法の目的は、明らかに同一労働を安いコストで賄おうというものであり、「同一労働同一賃金」の精神とはまさに真逆である。そのようなことが、2015年に労働者派遣法の改正(?)を行った、現行政府にできる筈がないからだ。両者は互いに矛盾するからである。
 以下、無意味な駄弁である。「正社員でないものは劣等者である」というテーゼが是認されるかぎり、弱者からの収奪は続くであろう。そして、このようなことは例えば「経営者の啓蒙」で片がつくような問題ではない。奇っ怪なことをいうと思われるであろうが、これは「人間性」の問題であり、正確にいうならその欠如の問題である。そして、我々から「人間性」は既に失われた。むしろ、「人間性」に頼るべきではなく、万が一突破口があるとすれば、それは基本的人権の精神に基づいた法改正しかあるまい。しかしそれもまた、企業の反対により実現することはむずかしい。最終的には、このような制度の延長線上にある日本の没落後に、ようやく真実を認識できれば上出来であろう。
 しかし、意味のない感想を書くが、日本の破綻は既に現実化しているとしかいえない。いまのところそれに気づいているのは嵐をまともに喰らっている弱者のみであるが、そのうち誰の目にも明らかになることであろう。笑わせる話である。

非正規クライシス

非正規クライシス

人間性」の問題というのに少し注をつけておくか。簡単なことだ。お前ら、人間に対してよくもそういう仕打ちができるなという、ただそれだけのことだ。自分が生き延びるためにはしかたがない、そりゃそうだ。ゆえに、「人間性の欠如」の問題と言ったのである。いまさら、それをとやかくいうつもりはない。自分だって、その立場に立てばそうしないという確信はない。ひどい話である。

思うのだが、貧乏人は連帯しないといけないですよ。戦略論的にいうと、各個撃破がいちばん有効な戦い方である。貧乏人は孤立しがちであるから、容易に各個撃破されてしまう。どんな連帯だっていいのです。何にもしないよりは、お互いにひそかにツイッターをフォローするだけでもいいし、ブログを読むだけでもいい。そう思います。


図書館から借りてきた、いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』読了。いとうせいこうの小説は『ノーライフキング』と『想像ラジオ』を読んだきりだけれども、どちらもとても刺激的だった記憶がある。本書もおもしろかった。舞台は近未来、どうやら日本と中国は戦争をし、日本は中国に併合されているようである。また日本国内では(おそらく戦争のために)原発が多数破壊され、国土の多くが放射性物質によって汚染されているようだ。老人である主人公はどうやら未来のいとうせいこうのようであり、なぜか中国国内の監獄に収監されていて、小冊子「やすらか」に「小説禁止令」に賛同する「随筆」を書いている。それが本書だというわけである。「著者」はみずから「小説」を貶めるため、必然的に過去の日本の小説たちを分析することになり、冗談ぽいがそれがなかなか読ませる。とエラそうに書いているが、自分はいとうせいこうほど日本の小説をきちんと読んでいないことがバレバレになって、こりゃいかんと思わされた。いとうせいこう、ちゃんといろいろ読んでいるなあ。さすがである。中上健次三島由紀夫も、いや漱石すら自分は漏れが多いなあと嘆息した。まあそれはどうでもいいので、本書は正しき「実験小説」で、さてもこういうのがわたくしは読みたいのですよ。いや、こんなのだって古いよという人もいるかも知れないが、自分はいとうせいこうの心意気既によしという気分なのである。おもしろかったなあ。

小説禁止令に賛同する

小説禁止令に賛同する

きちんと戦後日本文学の古典を読もう。はずかし。